開拓を支えた小さな鉄路・簡易軌道

茶内線(浜中村:当時)での集乳缶載せ替え(1956年頃・井上崎男氏蔵)

2018年、「北海道の簡易軌道〜次世代に伝える開拓遺産としての鉄路〜」が北海道遺産の一つに選定された。戦前・戦中は「殖民軌道」ともよばれたこの小さな鉄路は、北海道、特に東部と北部の開拓にとってはとてつもなく大きな存在だった。半世紀前に姿を消した簡易軌道の功績に今、スポットが当たり始めた。
石川孝織 釧路市立博物館学芸員-text

原野と暮らしを拓いて進んだレール

明治末から大正にかけての「北海道第一次拓殖計画」(1910〜1924年)、1923(大正12)年の関東大震災ではその罹災者救済として、北海道移住が積極的に推奨される。しかし、なかなか定着しない。入植地はあまりにも交通不便だったからだ。道東・道北の火山灰地、泥炭地では融雪期、道路は泥の海と化す。砂利も得にくい。人や物の行き来を数カ月間にわたり途絶させる。
その解決へ、内務省北海道庁は「殖民軌道」の敷設を計画する。軌間(レール間の幅)は762mmと国鉄(JR)在来線の1067mmより狭い、いわゆる軽便鉄道の仲間で、建設コストも運営コストも安く済んだ。線路などの施設は国が整備・維持をする。当初の動力は「馬」で、運行は地元に「運行組合」を組織させた。ただ土を踏み固めただけのような当時の道路に比べ、レール・枕木・道床で構成される軌道は、安定した輸送を確保できた。
1924(大正13)年12月、最初の路線として根室本線厚床駅から中標津までの48.8kmが完成する。厚床では盛大に開通式を開催、当時の新聞は「根室遠征芸妓酒間斡旋並に手踊の大車輪」「煙火を打上げ夜間は活動写真」などと報じている(釧路新聞 1924.12.22)。「中標津停留所付近は一市街地を形成し、付近住民其他の利便極めて多く、沿線枢要停留所付近及沿線原野等漸次移住者入地の増加を見るに至り、拓殖上欣ぶべき現象を呈した」(北海道拓殖計画事業報文 第一期・1931)。殖民軌道のターミナルとしての中標津、それが現在へ繋がる発展の礎になったといえよう。

厚床駅前で盛大に催された根室線開通式(絵はがき:三宅俊彦氏蔵)

さらに、1927(昭和2)年からの15カ年計画「北海道第二期拓殖計画」では、殖民軌道の敷設が正式に進められることとなり、全道で47路線・500マイル(約805km)が計画された。道東では標茶線など根釧台地を縦・横断する路線が、また釧路駅のとなり、新富士駅と鶴居を結んだ雪裡線・幌呂線や、国鉄根室本線茶内駅から開拓地へ延びた茶内線・円朱別線などが次々と完成する。また道北でも枝幸線などが開通、開拓地への2本のレールは、入植者に欠かせない交通手段として成功を収めた。
開拓の進展により時速数キロメートル、「一馬力」の輸送力では不足となる。根室線の厚床〜中標津(48.8km)ではガソリン機関車が1929(昭和4)年に導入され、さらに輸送量が増大していった路線は「本式の鉄道」に置き換わる。根釧台地では国鉄標津線(標茶〜中標津〜根室標津・中標津〜厚床)が1932(昭和7)年から1938(昭和13)年にかけて開通、並行する殖民軌道はレールが取り外され、標津線の駅を起点とする路線に転用された。
国鉄線を「動脈」とすれば、殖民軌道はいわば入植地へ入り込む「毛細血管」として、人々の移動だけでなく、開拓農家の収入源となっていた木炭や木材の輸送、そして道東・道北でも本格化しはじめた酪農を支えた。雪裡線・幌呂線では1941(昭和16)年、バスを改造した「木炭カー」(ガソリンカー)なども導入されている。

1932(昭和7)年(上)と1943(昭和18)年の釧路・根室地方における鉄路網

バスを改造した「木炭カー」

戦後、殖民軌道は「簡易軌道」と改称され(一部で戦中から)、内務省解体により農林省所管となる。道路へ転換可能な路線は1950年代までに多くが廃止となり、一方で輸送量の大きい路線は北海道開発局による「簡易軌道改良事業」として改良(動力化)や新設が行われた。運行は、馬が牽く「馬力線」は引き続き運行組合に、改良された「動力線」は所在する自治体へ運行が委託され、「○○町・村営軌道」とも称されるようになる。雪裡線(新富士〜中雪裡・新幌呂/鶴居村営軌道)の改良では、簡易軌道最初となる自走客車(ディーゼルカー)が導入(1956年)、制服を着た女性車掌が乗務し、エンジン音も高らかに颯爽と走る。「一馬力」からの飛躍的な近代化を遂げた。

雪裡線(鶴居村営軌道)に導入された、簡易軌道最初の自走客車(ディーゼルカー)(1956年頃・鶴居村役場蔵)

ちなみに簡易軌道は、法令上は「鉄道」や「軌道」ではない。「地方鉄道法」(現 鉄道事業法)でも「軌道法」でもなく、「土地改良法」に準じて管理された施設であった。
一方、馬力線のまま1960年代まで存続したのは、釧路・根室地方では5路線があった。馬が牽くトロッコはすでに「懐かしいもの」となっていたのであろう、風蓮線(厚床〜上風蓮)は当時のNHK番組「新日本紀行」などにも取り上げられている。1963(昭和38)年には改良(動力化)が完成し、起点は奥行臼駅(国鉄標津線)に変更された。また、塘路駅(国鉄釧網本線)からの久著呂線は、釧路川を渡る「久著呂橋」が原田康子原作の映画「挽歌」のロケ地になったことで知られる。以後、正式名称ではなく「挽歌橋」と呼ばれることが多かったようだ。しかし、その末期は利用する者も無く放置状態となり、1965(昭和40)年に廃止。これで全道から馬力線が消滅した。
そして1960年代後半(昭和40年代前半)からの急速な舗装の進展は、道路交通を格段に好転させる。動力線においてもその役割を失っていく。1967(昭和42)年には雪裡線 (鶴居村営軌道)が休止、さらに維持補修費を85%補助するという「頼みの綱」であった簡易軌道整備事業が1970(昭和45)年度で廃止となったことから、急速に廃止が進む。1971(昭和46)年には標茶線(標茶町営軌道)と風蓮線(別海村営軌道)、道北でも問寒別線(幌延町営軌道)と歌登線(旧 枝幸線/歌登町営軌道)が、そして牛乳輸送の役割が最も大きかった茶内線・若松線(浜中町営軌道)は1年間に限り暫定的に運行され、1972(昭和47)年に廃止となる。ここに、約50年間、北の大地の開拓を支えてきた簡易軌道は全て姿を消した。

1972年5月1日、茶内線・若松線(浜中町営軌道)最終日の記念列車(瀬下光起氏蔵)

地域の歴史と物語を伝える新たな資源として

釧路市立博物館では2014(平成26)年から簡易軌道に関する調査を本格化、最終期までレールが存在した鶴居・標茶・浜中・別海の路線を主な対象とし、各町村の社会教育担当者の協力のもと、OB・OGや当時の利用者などの聞き取り調査を行った。また当時、簡易軌道を訪れていた鉄道愛好家が記録した写真や音声、動画などを収集、情報の蓄積を図った。その記録は、あわせて保存していたきっぷや時刻表などから撮影日時や場所が明確に分かることが多く、資料性も高い。
そして開館80周年記念展として2016(平成28)年、企画展「釧路・根室の簡易軌道」の開催を決定した。開催前には先行研究者による講演会や、丸瀬布いこいの森(遠軽町)で動態保存されている雪裡線(鶴居村営軌道)のディーゼル機関車見学会を地元の鉄道愛好会「釧路臨港鉄道の会」などの協力を得ながら実施し、企画展への盛り上がりを作っていった。企画展は同年の秋〜冬に開催、道内外から多数の来場があり、バス見学会には各回、定員の4倍を超える申込をいただいた。講演会も「大入り満員」、中には首都圏から日帰りという熱心な方もあった。さらに2017(平成29)年には、NHK釧路放送局開局80周年記念として企画展「映像でよみがえる簡易軌道と道東開拓のあゆみ」を共同開催、NHKが所蔵する当時の映像などを活用した躍動感のある展示となった。そして2018年11月からは常設展示「釧路の近世と近代」内に「釧路・根室の簡易軌道」コーナーを設置、簡易軌道の“情報センター”として機能している。

2018年にNHK釧路放送局と共同開催した企画展「映像でよみがえる簡易軌道と道東開拓のあゆみ」

2019年に実施した「簡易軌道シンポジウム」での保存車両見学(鶴居村ふるさと情報館)

これらの経過で得られた情報(写真・書類・聞き書き)などは冊子にまとめ、刊行した。想像をはるかに超える注文があり、増補改訂版を発行するまでとなった。通販の申込書からは、比較的若い方(20〜30歳代)が購入していることが推測された。「当時を知る世代が懐かしく」だけでない、新たな層に簡易軌道が「北海道らしい」「道東らしい」魅力的な地域文化資源として認知されたのだろう。広がりを日々感じられことは、なによりうれしかった。さらに企画展や刊行物が「鉄道史学会住田奨励賞」「鉄道友の会島秀雄記念優秀著作賞」を受賞、厳しい目を持ったプロからの評価もまた大変名誉なことだった。
私自身も「鉄道趣味者」(鉄ちゃん)の端くれである。簡易軌道を研究テーマとするにあたり「ただの趣味ではないの?」などと言われやしないか、少々気掛かりもあった。取り組むにあたって、もちろん趣味者としての能力(?)を存分に仕事に活かしたと思う。ただ、それだけではない。「簡易軌道こそが開拓地の文化」といわれた時代もある。モータリゼーションが進む1970(昭和45)年頃まで、簡易軌道を含む鉄路が旅客・貨物の輸送の主役だった。鉄路が運ぶ人やモノの動きを見れば、何を作っていて、どのくらい住んでいて、どこに学校があって・・・そうした地域の姿がありありと、手に取るように分かるのだ。開拓地である北海道は、特にその傾向が強いかもしれない。

「簡易軌道を北海道遺産に申請したいと思う」。ある日、鶴居村長から直接電話があった。2018(平成30)年に北海道遺産の第3次選定の募集が行われた。そして「北海道の簡易軌道〜次世代に伝える開拓遺産としての鉄路〜」が新たに選定された15の遺産の一つとなった。鶴居村では記念シンポジウムを開催、今後は道北・道央も含めた簡易軌道が運行されていた自治体との連携が深まり、全道的な動きになっていくであろう。
産業遺産としての「簡易軌道」に現地でふれてみたいなら、まずは鶴居村「ふるさと情報館」や別海町「奥行臼停留所跡」の保存車両をおすすめしたい。鶴居は冬季も見学可能で、情報館内では村の歴史も学べる。奥行臼は簡易軌道だけでなく隣接して駅逓や国鉄駅も保存され、北海道の交通史を考える上で「聖地」ともいえる場所である。さらに鉄道を趣味とする「上級者」の方には、ぜひ当時の地形図や空中写真を参考に線路跡を探索していただければと思う。
鉄道愛好家の中でも「知る人ぞ知る」存在だった簡易軌道。半世紀前に使命を終えたそのレールは、いま新たな輝きをみせつつある。2024年には「簡易軌道・殖民軌道誕生100年」という記念すべき年を迎える。これからも地域と歩む学芸員として、そして「鉄ちゃん」として、この2本のレールにじっくりと、しっかりと関わっていきたい。

茶内線・若松線/浜中町営軌道の集乳缶を満載した貨車(今野繁利氏撮影・1971年)

残雪の中を行く茶内線(浜中町営軌道)の自走客車(遊佐洋氏撮影・1971年)

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