1999年の夏、北海道をバイクツーリングしながら風景写真を撮影していた私は、夕張市の大夕張鹿島を偶然通りかかった。大夕張は炭鉱の街だったが閉山となり、また新たに建設されるシューパロダムの湖底に街が沈むことになったため、1997年には住民の退去が完了していた。人々が去り誰もいない街、しかし人の匂いが未だ色濃く残り、今も暮らしの音が聞こえてくるような錯覚を覚えた。まちの跡に響きわたる虫の声と、一面に繁茂するセイタカアワダチソウなどの植物。大地を開拓した人々の手を離れ、急速に自然に還りつつあるその多彩な表情に大きな衝撃を受け、私は乗っていたバイクから降りることもできず、ただ街の風景を眺めるだけだった。今もそのことが強く印象に残っている。
私が北海道を初めて訪問したのは1996年。その時に大雪山をはじめとした美しい大地の姿に感銘を受け、バイクで北海道をツーリングするようになった。東京で駆け出しの写真の仕事をしつつ道内各地を旅し、各地で山に登りながら風景写真を撮影する日々を送っていた。そうした旅の最中に大夕張鹿島と出会うこととなり、この時に私は炭鉱遺産という存在を初めて意識した。大地を開拓し、人々がやがて去り、そこに残された産業構造物が自然に還り行く時に見せる様々な美しい表情。いわゆる「産業的自然」「インダストリアルネイチャー」を撮りたいという思いを初めて抱くこととなった。
この当時はまだデジタルカメラの黎明期で、私はリバーサルフィルムとモノクロフィルムを主に用いていた。風景写真はリバーサルフィルム、炭鉱遺産はモノクロフィルムをという使い分けだ。ありったけのモノクロフィルムを持参して北海道炭鉱遺産を撮影し、東京に持ち帰り自家現像を繰り返した。
この頃、まだ写真家として何を為すのかという意識が弱く、それでいて東京での生活に空虚さを感じてもいた。そうした時に炭鉱遺産と出会ったことで、一気に撮影意欲が高まり、1日でも多く北海道に滞在していたいと強く思うようになっていたのだ。そして、北海道での写真の仕事の依頼をきっかけに、2001年冬に東京から札幌へ拠点を移す決意をしたのだった。
札幌に移り住み、道内各地の炭鉱遺産を撮り歩いていた2003年のある日、義祖父が羽幌炭砿の保安監督員だったという話を聞いた。それまで羽幌炭鉱の存在を知らなかった私は、早速羽幌を訪ねた。羽幌炭鉱には三つの鉱区があったが、北側の築別から入り、羽幌本坑という地域に差しかかった時、大夕張鹿島に出会ったとき以上の大きな衝撃を受けた。真夏の深い緑の森に、真っ白な運搬立坑が静かに佇んでいたのだ。かつて山奥に栄えた炭鉱が、人が去り三十数年の時を経て、自然に還り、融合しつつあるその美しい表情。私の目には、廃虚の侘しさではなく、生命力あふれる姿として映ったのだった。
2005年には、炭鉱遺産を通じたご縁により、ドイツ・ルール地域の炭鉱遺産の取り組みに触れる機会を得た。ドイツでの撮影では「産業的自然(インダストリアルネイチャー)」という概念を知ることができた。これは、人の手を離れた産業構造物が、自然に取り込まれていく姿に芸術的な美しさを見いだすものだ。ドイツなどでは古くからこうした概念があるようで、炭鉱遺産再生の活動の柱になったという。ランドマーク的な遺産を、あえて手を入れずに、植物に覆われたり、自然に朽ち果てたりするに任せ、そこに価値を見いだすのだ。この概念は、私が産業遺産に見た、自然に還る姿に生命力と美しさを見出す視点に通じるものがあり、我が意を得たりと感じたものである。
北海道炭鉱遺産を撮影するにあたり、常に「自然と融合する表情の美しさ」「人の手を離れ、自然に還る時の流れ」を意識して撮影を行ってきた。初めて大夕張の街の後に佇んだ時、「この大地を撮影したい」と強く思った。なかなか説明するのは難しいところだが、あの時感じたものが、今の写真家としての私の土台になっていると感じている。
KEN GOSHIMA
写真家。1974年愛知県生まれ東京育ち。1999年に北海道炭鉱遺産に出会い、2001年より札幌へ拠点を移す。2010年「北海道炭鉱遺産(アスペクト)」出版。建築写真撮影業務を中心に、航空機撮影、夜景空撮などに取り組んでいる。公益社団法人日本写真家協会会員。http://kengoshima.com/