建築家・五十嵐淳さん×[インタビュアー]まちづくりプランナー・酒井秀治さん

思考し続ける建築~その1

第19回吉岡賞を受賞した「矩形の森」(2000年)(写真提供:五十嵐淳建築設計事務所)

五十嵐淳さんは佐呂間と札幌を拠点に、住宅を中心とした設計を続ける建築家。北海道の環境を読み解きながら、風や光を自在に取り込み、豊かで独自の空間を生み出す作品はもとより、その思想や活動に共感するという酒井秀治さん。「まちとプラザをつなぐ搬入プロジェクト」を一緒に行うなど、以前から交流の深いお二人が建築、環境、風景などについて語り合ってくれた。
石田美恵-text 黒瀬ミチオ-photo

「かっこいいもの」への憧れ

酒井秀治さん(以下、酒井):今回は五十嵐さんと、この北海道という土地で、ぼくらがこれからどんな営みを目指していったらいいいか、いろいろなことを含め何かヒントを示せたらと思っています。最初に、五十嵐さんが建築家をめざしたきっかけを教えてください。

五十嵐淳さん(以下、五十嵐):家業が工務店だったことが大きいと思います。おじいちゃんが大工の棟梁で、昔は職人さんが住み込みで、小さい工務店ですが建築が身近にありました。実家は3回くらい増改築しているのですが、おじいちゃんが子供のぼくに、「階段はどこがいい?」って聞くんです。「ここ!」と言うと、そこに階段ができました。
ある日突然壁がなくなり、景色が変わって別のものができあがる。その体験はとても興奮して面白かった。
すごく覚えているのが、いつもは暗い廊下の壁がなくなって、南から光が差し込み空間が明るくなったんです。またすぐ壁を作り直して暗くなるのですが、その状況が新鮮で「なんでまた暗くしちゃうんだろう」という違和感を感じました。

酒井:そういう違和感とか、先入観や常識を根底から考え直す思考は、五十嵐さんの設計の姿勢につながっていますね。その後、建築を学ぶようになったのは?

五十嵐:実家が道東の佐呂間町で、北見の高校をでて札幌の建築専門学校にいきました。
子供のころは絵を描いたり工作したりは好きでしたが、あまり真面目ではなかったんですよね。音楽も好きで、中学では放送委員長になって、昼休みや下校時に好きなレコードを学校中にかけるのが楽しかった。下校の曲は、ジャーニーの「フロンティアーズ」というアルバムに入っていたバラードだったり、自分なりに選曲していました。

酒井:なつかしい!

五十嵐:田舎で育ったから、おしゃれなものへの憧れがとにかく強かった。高校生になって、道東では都会の北見に下宿し、北見なりの「おしゃれな店」に出入りするようになると、「かっこいい店」とそうでない「普通の店」があることに気づきました。そこで、インテリアデザイナーってかっこいいな、と漠然と考えるようになりました。
でもなぜか当時、インテリアを先に勉強すると、そのあと建築を学ぶのが難しいんじゃないかと思い、建築の学校を探して入学しました。

酒井:そこで、最初の憧れである安藤忠雄さんの建築に出会うことに?

五十嵐:いえ、出会いではなく、「再会」でした。
専門学校の友達が安藤忠雄さんの本をもっていて、学校の昼休みにパラパラと見ていると「住吉の長屋」や「光の教会」が出ていて、小学生の時にテレビのドキュメンタリーで見た「あのときの人だ!」とつながりました。
その番組で、家のなかに外(中庭)がある「住吉の長屋」にびっくりして、うらやましい、楽しそう、見たことない…と思ったのを、そのとき完全に思い出したんです。そこで安藤さんのファンになり、「自分も建築家になりたい」とはっきり思いました。

五十嵐淳
1970年生まれ。1997年に(株)五十嵐淳建築設計事務所を設立。2005年には日本人として初めてバルバラ・カポキンビエンナーレ国際建築賞グランプリ(イタリア)を受賞、2012年にオスロ建築大学にて客員教授として教壇をとり、海外での講演会も多数。
五十嵐淳建築設計事務所

最初から「クセ」があった

五十嵐:専門学校に通って、設計の授業だけは楽しかったです。僕の設計は最初から非常にクセがあって、四角いものとか、細長い平面ばっかり描いていました。今とぜんぜん変わってないって言われますけど(笑)。
普通の住宅の間取りが描けなくて、でも周りはリビングがあって、キッチンがあって、という普通の設計を描いているので、それが驚きでした。「何でみんなつまんない設計するんだろう」と思っていた。平面がきれいでないと嫌だったんです。

酒井:安藤さんの平面図も、もちろん五十嵐さんの平面図もほんとうに美しいですよね。専門学校を卒業して札幌の建築事務所に就職されますが、これは学校の推薦ですか?

五十嵐:設計は上手だったけれど他の成績が悪かったので、1社だけ推薦できると言われて。そこはハウスメーカーのコンサルティングをしていて、最初はいろいろ覚えるのに必死でしたが、一通り覚えると無意識でも図面を描けちゃうんですね。
それから辞めるまでの5年半は、図面を描きながら妄想ばかりしていました。「こうしたらもっといいのに…」と妄想しながら、現実の図面をモクモクと描く、という状態です。

その事務所には幸いなことに建築雑誌がたくさん揃っていて、昼休みにずっと眺めていました。一番大きな影響を受けたのは「新建築住宅特集」です。
そのとき出会った妹島和世さんの作品「PLATFORM I」の衝撃は、今でも忘れられません。キラキラとして、他とはまったく違っていました。二作目の「PLATFORM II」がさらにすごくて、もう、ファンになりました。
単に奇抜とか新しいとかじゃなくて、ストンと入ってきたんです。平面にもデザインにも、まったく違和感がなかった。「そうそう、こういうことがやりたかった!」と。ずっと後になってご本人にお会いしましたら、本人もキラキラと太陽みたいなかたでした。今も大好きで、妹島さんのフォロワーです。

酒井:妹島さんのスレンダーで透明感のある建築は、五十嵐さんの建築に通じるところがあるかもしれませんね。

酒井秀治
1975年生まれ。北海道大学工学研究科を修了後、東京のまちづくりコンサルタントにて主に密集住宅の再生に携わる。2007年にふるさと札幌に戻り、(株)ノーザンクロスにて都心部の再開発、まちの賑わいづくりなどに取り組む。2010年「サッポロ・ミツバチ・プロジェクト」を設立、理事長に。2019年(株)SS計画設立。一級建築士。

「いいものができた」と思った

酒井:その後事務所をやめて、実家に戻られるんですよね。

五十嵐:25歳になり一級建築士の試験が受けられるようになったので、仕事は辞めて勉強しようと思いました。ちょうどそのころ、実家の工務店の事務所を建て直すというので、設計させてほしい、となかば無理矢理に設計し始めました。3案目で父からOKがでて着工し、1996年に初めての作品「白い箱の集合体」ができた。
それで日本建築学会北海道建築賞の「奨励賞」をもらいました。でも、当時25、6歳で生意気だったので、「北海道の建築界に浸かっていたら、自分があこがれた世界には到達できない」と思ったんです。危機感というか、これでいいのか、と逆の衝撃でした。それから1997年に佐呂間で自分の建築設計事務所を設立し、友達の家をつくったりしていました。

酒井:そこから、佐呂間の自邸である「矩形の森」の設計に向かっていくわけですね。
すごく特徴的だと思いますが、窓の機能がほとんどなくて、半透明のポリカーボネイトを使って光を取り入れる「内に向かって閉じる建築」が生まれたのはどうしてですか?

五十嵐:「矩形の森」の敷地は佐呂間で一番交通量の多い道に面し、周囲にたくさん建物もあるため、外からの視線が気にならないように、と考えました。閉ざしながらも光を心地よく取り入れる空間にしたかった。もちろん断熱性能とかいろいろなこともクリアしなきゃいけません。でも、クリアするだけならみんなやっていますから、自分が目指している人たちの世界まで到達できないと思い、これで絶対に「吉岡賞」(※1)をとってやる、と思いながら設計しました。

2000年に完成して、「いいものができた」と思いました。住んでいて快適だったし、建築としても新しいものができたと思った。それで新建築の編集部に投稿しましたが(※2)、全くなにも連絡はありませんでした。次の建物ができたときも諦めずに送り、そのときはさすがに連絡があって、当時の編集長から「今度北海道取材があるので、あなたのところにも寄ります」と。

酒井:すごいですね!

五十嵐:女満別空港まで迎えにいって、見せられる建物は全部見せ、半日かけて詳しく説明して、結局「初めてなので、まず自邸を載せます」と言われました。自分としては全部載せてほしかったけど、まぁしょうがないです。ぼくは大学を出ていないし、「系譜」がない。系譜ゼロの人間は最初扱いが悪いんです。
2002年12月号に初めて作品が載った号が届いたときは、うれしかったですよ。その翌月にまた編集部から電話があって、何か掲載してくれるのかと思ったら、「第19回吉岡賞、受賞です」という連絡で、めちゃくちゃ興奮しました。その受賞がきっかけで、いろんな人と出会えるようなりました。

※1「吉岡賞」:建築家の登竜門と呼ばれる新人賞で、妹島和世さんは第6回の受賞者。
※2 新建築社では掲載する作品を随時募集している。

「矩形の森」平面図(2000年)(画像提供:五十嵐淳建築設計事務所)

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