内地からのまなざし -1

1884年、道庁設置前夜と安場保和の旅

明治中期の煉瓦建築が現存するサッポロファクトリーは、開拓使の官営事業である麦酒醸造所の跡地

1882(明治15)年、開拓事業の最初の10年計画が終了すると、政局の動乱の中で開拓使は廃止される。このあと3つの県に分割された北海道の開拓は、停滞の淵にあった。再起動のためにいくつかの巡視団がやってきたが、その中に、のちに北海道庁長官を務める安場保和(やすばやすかず)がいた。
谷口雅春-text&photo

市制の前にあった札幌区の時代

1884(明治17)年の夏。元老院議官でのちに北海道庁長官も務める安場保和(やすばやすかず・1835-1899)をリーダーとする一行が、札幌とその近郊を巡視した。元老院とは、帝国議会が開設される(1890年)前にあった立法の諮問機関だ。
この時代の北海道は、開拓使が1882(明治15)年2月に廃止されたのちの、いわゆる「三県一局」の時代。函館県、札幌県、根室県、そして北海道事業管理局(開拓使の官営事業を引き継いだ農商務省直轄組織)が行政をつかさどっていた。全道の人口は、道南やニシンの漁場を中心に、まだわずか24万人台にすぎない。
県といっても内地のような仕組みはないし、役人のほとんどは開拓使からのスライド。札幌の県令は、薩摩出身の調所広丈(ちょうしょひろたけ)だ。ちなみに、函館県令の時任為基(ときとうためもと)、根室県令の湯地定基(ゆちさだもと)、そして事業管理局長安田定則(やすださだのり)も見事に旧薩摩藩士。組織はリセットされたものの、薩摩閥が権力を握り続けた開拓使の構造は、そのまま生きていた。

1878(明治11)年、日本に最初の統一的地方制度が創設され、北海道にも翌年、郡区役所が設けられた。開拓使札幌本庁と函館支庁・根室支庁の管下に、2区(札幌区・函館区)、88郡が設置される。札幌では、札幌区役所(南2条西5丁目)が札幌市街と一円の村々(札幌村、白石村、琴似村、円山村、丘珠村など)を管轄した。
そして安場が来札した1884年の夏。行政の効率化のために札幌県は、札幌区役所の所管を札幌の市街に限定して、周辺の村々は石狩郡役所などの担当にする。これが1922(大正11)年の市制施行までつづく札幌区の時代のはじまりで、区の人口はこのとき1万人ほどだ。

巡視のようすは、『明治初年北海紀聞』(清野謙次編)にある安場保和の日記からみてとれる。
8月6日、安場一行は、札幌県庁、裁判所、管理局、工業事務所、諸器械所、陳列所、粉挽所、麦酒・葡萄酒醸造所、葡萄園などを見学。12時には永山武四郎大佐宅で昼食をとった。サッポロファクトリーの東隣に保存改修されて現存する、旧・永山武四郎邸だ。午後は札幌監獄に行き、囚徒たちが拓いた開墾地を見た。
和人によって道都の建設がはじまってまだ10数年。しかし当初は大木を伐ると賞金がもらえたので森はどんどん拓かれ、市街にはすでに巨木がなくなっていた。調所県令はこれを憂いて伐木を禁じることにする。そのため、麦酒醸造所(現・サッポロファクトリー)や苗穂村の監獄(現・札幌刑務所)は巨木に囲まれていた。

翌日は永山に案内されて琴似屯田兵村へ。発寒、山鼻の兵村もまわって、屯田兵制度の意味と、耕作と養蚕などの現状をつかんだ。
8日は農業事務所付属園、博物館、屯田事務所などをまわり、調所県令らと晩餐。ちょうどこの年、事業管理局の札幌博物場と附属地が札幌農学校に移管されて、同じ場所に宮部金吾設計による植物園を創設することになった。現在の北海道大学植物園だ。

9日の朝は石狩に向けて馬車で出発した。札幌、丘珠、篠路を経て、茨戸太(ばらとぶと)で休憩。13時に石狩郡役所に立寄り、昼食後に石狩川渡船。当別に向かった。目的は、宮城県の岩出山から入植した仙台藩岩出山伊達氏主従の開墾地を見ること。戊辰戦争の敗戦で居場所を失った彼らは、1872(明治5)年の春、当主伊達邦直(くになお)に率いられて当別に移住した。邦直は、伊達家同門である亘理伊達家(現・宮城県亘理町)からひと足先にモンベツ(現・胆振管内伊達市)に入っていた、伊達邦成(くにしげ)の実兄だった。
安場はこのようにして、開拓の最前線とその責任者たちに精力的に接した。

安場が訪れたときと同じたたずまいを見せる旧永山武四郎邸。オンコを多用した内地風の庭がいまも残されている

各地の殖産興業に尽くした肥後の人

安場保和のこの調査行は札幌にとどまらず千島列島と北海道本島の要所をめぐる長大なもので、報告書は、北海道に大きな影響を与えることになる。そこを掘り下げる前に、安場保和の人となりを、『安場保和伝』(安場保吉編)などをもとに説明しておこう。

安場保和は、熊本藩細川家の家臣の長男として、1835(天保6)年熊本に生まれた。高名な思想家横井小楠のもとで学び、横井が開国派の福井藩主松平春嶽から顧問役として招かれたときには、師に随行している。戊辰戦争では東海道鎮撫総督府参謀となり、江戸城開城の軍議にも参加した。戦争前から熊本藩は、新政府が敵として分断した奥羽越列藩同盟の盟主仙台藩とは、良好な関係をもっていた。
明治新政府では、藩を代表して参与職についた二人のうちのひとりとなり、ほどなくして胆沢県(現・岩手県の一部)の大参事(県のナンバー2)となる。1869年、35歳。この時代の安場は、水沢(現・奥州市)の地でのちに偉人となる人材を見出した。満鉄総裁や東京市長となる後藤新平と、海軍大将や総理大臣となる斉藤実、そして新島襄の右腕となった山崎為徳だ。その後熊本に戻って熊本藩の藩政改革を担う。全国の藩がなくなる(廃藩置県)のはそのあとだ。

1871(明治4)年には東京で大蔵省の幹部(大蔵大丞)となり、さらに、あの岩倉使節団に参加した。右大臣岩倉具視を特命全権大使として、政府の高官や実力者たちが近代国家の仕組みを学ぶために、1年10カ月もの期間を費やして欧米12カ国をまわった旅だ。しかし安場はヨーロッパには渡らず、本隊よりも先に帰国している。この時代でも内に攘夷精神を秘めて、英語ができない苦痛に堪えられなかったのだろう、といわれる。
帰国すると福島県令となった。使節団でいっしょだった実力者大久保利通大蔵卿が、戊辰戦で理不尽に「朝敵」のレッテルを貼った地の、難しい統治と殖産に安場の力を求めたのだった。
福島時代に特筆されるのが、オランダの先進技術を導入して猪苗代湖の水を利した安積疏水(あさかそすい)を建設して、開墾と殖産興業に取り組んだことだ。薩長らによって不当な負け組にさせられた福島のために、安場は旧米沢藩士中條政恒をリーダーに据えて、郡山盆地の開拓を進めた。中條は、日本の近代建築の第一世代である建築家中條精一郎の父。息子精一郎は文部省の技官として、1903(明治36)年に鉄道の北(現・北海道キャンパス)に移転した札幌農学校の新校舎の建築計画を担当したが、彼の長女は作家の宮本百合子だ。
また土地の伝統産業である養蚕の近代化のために、群馬県から器械製糸の先駆者である速水堅曹を招き、二本松製糸会社を設立したり、のちに後藤新平が学ぶ須賀川医学校の開設にも尽力した。二本松製糸会社の創業地は、戊辰戦争終盤の悲劇の地となった二本松城址(じょうし)だ。

次の任は愛知県令。
この時代にも、明治用水などインフラの整備と産業の育成、さらには、愛知県病院の新築と、その医師団に胆沢県時代に面倒を見た後藤新平を加えた。後藤はのちに安場の次女と結婚している。戊辰戦争後に東京博物館に移されていた名古屋城の金鯱(きんしゃち)を天守閣に戻したのも、安場の歴史観のあらわれだった。
46歳になると、元老院議官に任命された。各省の次官級のポストだ。殖産のためには鉄道が不可欠であると、最初の私鉄である日本鉄道の設立に深く参画したのはこの時代。1881(明治14)年に設立された同社は、10年後の1891年には上野・青森間を全通させた(1906・明治39年に国有化)。
また安場は、大隈重信や黒田清隆の失脚と開拓使廃止につながる「明治14年の政変」でも存在感を見せた。憲法制定・議会開設をめぐる自由民権派と薩長藩閥の対立の中で、第三の極を(中正党)を志向したといわれる。
1882(明治15)年には、最高官庁である太政官の施策で、自由民権運動の状況や各地の政治経済の情勢を把握するために地方巡回視察が行われ、安場は、神奈川、静岡、愛知、岐阜、福井、石川、長野など10の県下を巡視した。この旅が、その後1884(明治17)年の3カ月におよぶ北海道、千島の巡視につながるのだった。

安場保和(1835-1899)

開拓の最前線をまわる

1884(明治17)年8月5日に札幌に入る前、安場は、横浜から船で函館に入り(6月16日)、七重(七飯)の官園を見たあと、はるかな千島に向けて出航している。北東端の占守(シムシュ)島に上陸したのが7月1日。興味深いこの千島行については稿をあらためよう。
15日には根室に戻り、再び北上して国後島に上陸してから、網走、サロマ、標津を訪問している。根室に戻ってからは、今度は陸路で札幌に向かう。もちろん本格的な道路と呼べるものなどほとんどない時代の、駅逓で乗り継ぐ馬と徒歩の旅程だ。釧路では釧路川を上って硫黄鉱山(アトサヌプリ)を視察。十勝の大津、広尾、日高の様似、浦河と進み、勇払、苫小牧。そこから石狩低地帯を北上して、豊平館に重たい旅装を解いた。

札幌のあとは樺戸集治監(月形)、幌内炭鉱(三笠)と空知集治監(同)を見て、小樽から船で増毛に入り、そこから天売、焼尻、利尻、礼文の各島と、宗谷へ。小樽に戻り、そこから函館に着いたのは8月21日。さらに船で仙台藩亘理伊達家の当主伊達邦成が率いたモンベツ(現・伊達市)の入植地におもむき、邦成らと会談した。戊辰戦争で途方もない苦渋をなめた当主と家臣団がほぼそのまま北海道に入植し(第一陣は1870・明治3年4月)、目を見張る成果をあげていることは、安場に強い印象を与えた。
安場の巡視の目的は、中央の目線で北海道開拓の実績と現状、そして将来を見定めることだった。胆沢、福島、愛知と、関わった土地で安場は、岩倉視察団仕込みの開明的な志向で近代的な殖産興業に取り組んだ。そんな安場の目に、日本の新たな国土である北海道はどのような島に見えただろうか。

安場の日誌を採録した、京都帝国大学教授清野謙次(医学・考古学)の『明治初年北海紀聞』は、安場の孫(富美)を妻とした清野が、安場の旧宅で貴重な資料群と出会ったことで編まれた。そこには、安場が提出した報告書の下書きがあり、北海道の開拓は、「今ヤ第一期既ニ了(おわ)リ、正ニ第二期中ニ際ス、宜ク速ニ之カ措置ヲ改良セサル可ラサルモノアリ…」という前提で、およそ次のような提言がある。
北海道の三県は廃止して、内務省に属する北海道殖民局を札幌に置くべき。殖民局長1名の地位は、内地の府知事県令と同等。
ただし函館は府を置いて市制とする。函館はすでに北門の一大要衝。ここに離宮を設け、親臨(天皇が出向く)の施設を設ければ良い。
北海道は内地とは異なる制度を敷く必要がある。
北海道への移住民に開墾資金や旅費を支給するのはやめる。

1910(明治43)年の札幌区役所。安場が訪れた初代庁舎から三代目で、場所も変わり現在の市役所の地にあった(『時計台建立80周年記念誌』より)

金子堅太郎の『北海道三県巡視復命書』

開拓使の10年計画が終わると、黒田清隆長官らが、さまざまな官営事業を不当に安く薩摩閥に払い下げようとしていたことが発覚する。「開拓使官有物払下げ事件」だ(1881・明治14年)。中央では自由民権運動による国会開設を求めるうねりがあり、払下げに関与したと濡れ衣を着せられた薩摩出身の経済人五代友厚と近かった大隈重信(参議・大蔵卿)の失脚があった(明治14年の政変)。官有物払下げの中止と開拓使廃止、明治23年の国会開設の決定は、一連の政局としてあったのだ。こうして、開拓使時代の札幌本庁、函館支庁、根室支庁をベースに札幌県、函館県、根室県が置かれたのだが、ほどなくして、この体制の効率の悪さが指摘されるようになる。開拓はあきらかに停滞していた。

これからの北海道開拓をどうすべきか。政府の調査は、安場のこの旅だけではなかった。
すでに1882(明治15)年には会計監査院長だった岩村通俊(みちとし)の巡視があり、岩村は開拓を進めるためには道都を旭川に移すべきだと主張する。安場が来道した翌年(1885年)には農務省卿西郷従道(隆盛の弟)と内務卿山県有朋の視察があり、二人は連署で北海道の殖民と興産を建議した。そして同じくこの年、伊藤博文参議の命を受けて太政官大書記官金子堅太郎が来道する。金子は、提出した『北海道三県巡視復命書』で、やはり三県一局の廃止と殖民局の設置を主張した。旧福岡藩士の金子は、旧藩主黒田長知の随員として岩倉使節団に参加して、そのまま米国留学。最終的に日本人で最初にハーバード大学を卒業して、新政府に出仕すると伊藤博文の右腕として大日本国憲法草案にも関わったエリートだ。
復命書には、「政府ハ断然一大改革ヲ行ヒ県庁及ビ監理局ヲ廃止シ殖民局ヲ設立シ、欧米ノ殖民論ニ基キ事業ニ着手スル所ノ順序ヲ定メ、務メテ外形ノ虚飾ヲ省キ拓地殖民ノ急務ヲ実行スルニ在リ」、とある。
安場と金子の主張のベクトルは完全に一致している。そうして1886(明治19)年1月、北海道庁が設置され、三県一局は廃止された。初代の道庁長官には、薩摩閥とは一線を画す、土佐出身の岩村通俊が就いた。

金子のこの復命書はほかに、例えばインフラ整備を進めるためには集治監(重罪人の監獄)の囚徒を使うことや、札幌農学校はもっと実践的な教育に徹すべき、などと主張したことが知られている。囚徒労働については、樺戸や空知集治監の囚徒を働かせれば工費を大幅にカットできるし、苛烈な労働でたとえ死んでしまっても逆に監獄費が節減できるから好都合だ、というひどい理屈だ。また豊平館、葡萄酒製造所、師範学校は、「最モ殖民地ノ急務ヲ鑑ミザルモノト云フベキナリ」と指摘して、北海道には過ぎたるものだと決めつけている。ロシアの脅威にさらされながら近代化を急ぐ日本にとってこの島は貴重な原資なのだから、理想を追うよりも現実的な殖民を行うべき、というわけだ。

安場保和は北海道巡視のあと、道庁発足時(1886年)には福岡県令(のちに福岡県知事)となった。九州鉄道(株)の創立に関わったのはこの時代。知事を辞職したあとは貴族院議員となり、1897(明治30)年9月、63歳で第6代北海道庁長官に任ぜられた。しかしわずか11カ月ほどで札幌を去り、その翌年、心臓病のために没した。
安場が率いた千島巡視と、明治30年からの北海道庁長官時代については、次回にしよう。

明治末年の停車場通(現・札幌駅前通)。奥に札幌停車場。札幌鉄道倶楽部の前を馬鉄が通る(絵はがき「なつかしの札幌市電」札幌市公文書館所蔵)

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