下宿屋さんは令和も健在!~「下宿 上野」の今昔物語

美味しい食事が「下宿 上野」の魅力。三代目の管理人・山下雅司さんの手料理だ

昔ながらの学生街にふさわしい、懐かしい響きを持つ「下宿」。北海道大学そばで半世紀近く営業する「下宿 上野」は、多くの学生たちを受け入れてきた。祖父母、母からバトンを受け継ぎ、三代目管理人となった山下雅司(やました・まさし)さん(34)は「“食”と“住”で支えたい」と語る。
新目七恵-text 黒瀬ミチオ-photo

親子二代で食のプロ

マスク越しでも、出汁の深い香りが感じられた。
「下宿 上野」の玄関口。正面のドアからひょっこり顔を出した山下さんは、エプロン姿だ。訪れたのは午後の早い時間帯だが、撮影のために晩御飯の仕込みを早めに始めてくれたという。調理場をちらり覗くと、揚げたてのカツが山盛り! 今夜はスタミナ満点のかつ丼だ。

現在は18人が下宿し、うち学生は札幌工業高校生と予備校生3人。運営する別施設の入居者分と併せ、毎日30~40人分を用意する

部屋を間借りし、大家さんやほかの下宿人と共同生活する「下宿」。旅館業法で「1月以上の期間を単位として宿泊させる営業」と規定され、東京を中心に全国各地の大学やオフィス街周辺に多く建ち、親元を離れた学生や独身の会社員らに重宝された。夏目漱石の「こころ」や五所平之助監督「煙突の見える場所」(1953)など往年の日本文学や映画にもたびたび登場し、明治~昭和の日本人にはなじみ深い環境だったことが分かる。
明治後半には東京だけで1000軒以上もあったそうだが、時代とともに減少。2020年度の施設数は国内で609軒(厚生労働省、生活衛生関係施設数の統計調査)。モダンな外観や充実した施設を売りに「学生会館」と称する下宿施設も多い中、「下宿 上野」は昔ながらの看板を守り続ける稀有な存在といえる。

「下宿」の大きなメリットは、朝晩の食事が付く点だろう。
札幌の専門学校で調理を学び、和食、中華、洋食の現場で経験を積んだ山下さんは、施設の管理業務と調理を担当する。聞けば二代目管理人の母・山下明子さん(62)も栄養士。親子二代で“食のプロ”とは頼もしい限りだが、山下さんいわく「数年前まで家業を継ぐとは考えてもいなかった」という。気になる彼の経歴を伺う前に、まずは「下宿 上野」の歴史を振り返りたい。

 

「入居を希望する学生の列ができた」

「下宿 上野」の始まりは1974(昭和49)年。
初代は山下さんの祖父母、明子さんの両親に当たる上野寿雅(うえの・としまさ)さん、三好(みよし)さん夫婦で、札幌市内の鉄工場に家族で住み込み、まかない作りをした三好さんが「こういう仕事がしたい」と考え、寿雅さんとともに現在地近くの古民家で下宿業に挑戦したのが最初だという。
近くにあった札幌予備学院(当時)の生徒や北大生が予想以上に集まったことから、数カ所で下宿屋を展開。現在の土地を購入して新築したのが、今の「下宿 上野」につながる。

北大生協と提携し、北大の新入生が毎年見学に訪れた時期もあったそう。掃除の時間以外はいつでも入れる「24時間風呂」も人気の秘密

「下宿 上野」を建てたばかりの頃、小学生だったという明子さんは「どんどん人が入ってきて、入居の時期になると学生さんが外にずらっと並んだのを覚えている」と振り返る。
札予備(後の河合塾札幌校)が移転する2008年まで、入居者のほとんどは北大生と予備校生。明子さんは「弟が勉強を教わったり、私は当時流行していたカセットテープやCDを聞かせてもらったり。そういえば冬場はこの辺に除雪車が入らないので、雪かきを手伝ってもらいました。学生さんと一緒に汗を流した父が、お礼にコンビニでご馳走したことも覚えています」と話す。

明子さんに北大生の印象を伺うと、「真面目でちょっと変わり者」と苦笑い。何でも、パジャマのまま食堂で朝食を食べていた学生に、母の三好さんが「ダメだよ」と声を掛けたところ、プイっと出て行き、なんとネクタイを締めて戻ってきた(!)、という記憶に起因しているらしい(笑)。残念ながら昔の写真は一枚もないそうだが、そうした思い出話から、家族ぐるみで下宿人と接していたアットホームな空気が伝わってくる。

幼い頃からずっと下宿業を手伝ってきた明子さんは、結婚し、実家を出てからも従事。幼い雅司さんの手を引きながら通い、調理を中心に下宿人の世話に励んできた。それもひとえに「母に楽をさせたい」という思いからだったが、両親から経営を任されてからは「悩むことも多かった」と明かす。
「ご飯を作るのは好きだったけれど、経営の自信はなかったので…」と話す明子さんは、「そうこうしているうちに息子が『やってみたい』と言ってくれて、良かった!と内心思いました」と語る。

下宿業に一人奔走する母親の背中を見てきた雅司さん。「やってみたい」と申し出た言葉の真意を聞いてみた。

 

「つなぎ」で始めた下宿家業

「実は、それまで携わっていた飲食業を辞めようと思い、次の仕事を探す“つなぎ”みたいな軽い気持ちでした」と雅司さん。

父親は製麺業を経営し、両親共働きだった雅司さん。子どもの頃から母の実家となる下宿に出入りしていたが、手伝いを強制されたことは一度もなかったという。だから覚えているのは、入居する北大生によく遊んでもらったこと。「下宿の前の通りでサッカーやラグビー、野球もやりました」と懐かしむ。

「小さい頃は北大生と遊んだ楽しい記憶しかありません」と振り返る山下さん

そんな雅司さんが調理の専門学校に進んだのは、「大学に行く気はないし、手に職があった方がいいかな」という単純な思いから。包丁を握ったことはなかったが、中華を専攻したところ「料理は意外と性に合った」そうで、卒業後は札幌の焼き鳥店に就職。焼き手を経験後、調理場では副料理長を任された。
ここからが驚きだ。突然単身渡米し、ニューヨークの焼き鳥店で3カ月勤務。さらにタイに渡り、系列店で焼き・調理を担当する現場責任者となったのだ。

「英語もタイ語もできませんでしたよ」と豪快に笑う雅司さんによれば、最初に就職した焼き鳥店で、過酷な飲食業界に心身ともに疲弊。「新しい場所に飛び込みたい」と、父のつてを頼ってアメリカに行くことにしたのだ。すると現地で、プライベートも大切にしながら働く楽しさを知り、タイでの経験も糧に「海外に永住したい!」との思いを抱き、いったん帰国したのが20代半ばのことだった。
海外に再び行く資金をためようと、札幌のイタリアンレストランで料理長やホールでの接客、パティシエなどを経験。ところがそこで、料理の腕前もライフスタイルも別次元のプロの料理人と出会い、「自分はそこまでできない」と心が折れたという。

ここで、この章の冒頭に戻る。プライベートでは結婚したばかり、雅司さん25歳の頃だった。

どちらかというと後ろ向きな動機で家業である下宿を手伝い出した雅司さんだったが、始めてすぐに、その面白さに気づいたそう。
「実は、僕は客に料理を出すより、一緒に働く従業員にまかないを作る方が楽しかった。というのも、料理の感想を直接聞いたり、食べる顔を見たりすることが、喜びだったんです。下宿はまさにそれができる場所。『この仕事っていいな!』と実感しました」
雅司さんは法人を立ち上げ、母・明子さんから管理業務を正式に請け負うことにした。下宿を手伝い始めた翌年、2016年のことである。

 

料理で支え、自己実現をサポートしたい

「下宿 上野」の公式サイトには、からあげチャーハンやそば、鍋など、美味しそうな食事の写真が紹介されている。もちろんどれも雅司さんの料理。和、洋、中と、ジャンルの異なる現場で磨いてきた腕をいかんなく発揮している。「食材は業者からまとめて仕入れるのではなく、毎日スーパーに足を運び、自分で見て選び、その場でメニューを決めます」とモットーを話す。

「美味しいと評判なのは和食ですが、中華も好き。中華鍋の上で、約1分で勝負が決まるのがたまりません」と雅司さん

「勉強や仕事で忙しい時は、料理はおろか、趣味の時間や友達と会う余裕もありません。とはいえ、学生・社会人として成長するのに必要な時期でもあるのは、理解できます。だから、帰ってきてご飯ができていたら嬉しいし、それがおいしかったらなお嬉しいと思うんです」と意義を語る。

大人になり、下宿の管理人となった雅司さんにも、北大生との新しい出会いがあった。
「下宿を手伝い始めた頃に入居したある学生さんは、卒業までの4年間入居してくれ、歳が近いこともあって仲良くなりました。就職で上京した後もSNSで近況を報告し合ったり、札幌に来た時は食事を一緒にしたりしています」
下宿人だった別の元北大生からは、春になるとヒトビロ(行者ニンニク)が毎年届く。天ぷらやお浸しにして、後輩に当たる現下宿人たちと味わうのも楽しみの一つだ。「学生さんは卒業して退去することが多いですが、元気に働いている知らせをもらうのが何よりも嬉しい」と笑顔で語る。

下宿業にやりがいを感じた2016年、雅司さんは新しい施設を山鼻地区で始めた。食事付きシェアハウス「シェフイエ」だ。食事は「下宿 上野」と同じだが、「人とのコミュニケーションを少しプラスしたい」という雅司さんの思いを反映し、入居者同士の交流をサポートするのが特徴だ。コロナ禍でそのコンセプトは変更を余儀なくされたが、「僕が料理で生活を支えるので、札幌で存分に学び働き、パフォーマンスを上げてほしい。ここが自分の目標を実現させられる場所になれば」という願いは変わらない。

下宿業を通し、雅司さんは時代の移り変わりを感じてきた。
「僕が小さいときは、よくじいちゃんが学生に怒鳴っている姿を見ました。親代わりに叱ってくれる、面倒見の良い大人だったのでしょうね。でもコロナもあり、近年は他人との関わりも変わりました。今、僕がじいちゃんと同じ態度を取っても敬遠されるだろうし、そもそもできません(笑)」。でも、と雅司さんは続けた。「僕も親になって感じるのは、親や学校以外で、考えの違う他人と触れる機会はとても大事だということ。人が生きる上で欠かせない“食”と“住”を兼ねる下宿業は、そういう意味でも必要。時代のニーズに応じて形は変わっても、在り続けるのではないでしょうか」。

「下宿 上野」は早くて2年後に建て替え工事を予定。雅司さんは「本館はこれまで通りですが、2号館は『北大生専用』にすることも検討中です」と話す(提供:下宿 上野)

取材の後半、雅司さんにちょっと意地悪な質問をぶつけてみた。「海外に定住したい」とまで考えていらしたのに、下宿業はまとまった休みが取れなくて大変では?
すると、「実は平日、わりと時間があるんです」と意外な答え。
客の注文次第で朝から晩まで働きっぱなしだった飲食業時代に比べ、今は料理を出す人数も時間も決まっている。だから時間的な余裕ができ、その分、経営の勉強をしたり、自分の趣味や家族の時間に費やせることが嬉しいという。パートナーは看護師で、3人の子どもたちの急な呼び出しに対応するのは雅司さんの役割だ。

大学卒業後も入居し続けたり、長い下宿人になると約20年住んでいたりするという「下宿 上野」。居心地の良さは、さまざまな人生経験を積み、自身のプライベートや家族を大切に生きる管理人さんの人柄によるところも大きいのだろう。
出汁の香りがまだ淡く漂う玄関の先、鼻先をかすめた春風が、何とも心地良かった。

下宿 上野
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シェアハウス「シェフイエ」
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