祭りの火を、もう一度。―古平町に伝わる「天狗の火渡り」―

後志地域の海沿いの町には火渡り神事が幾つか見られるが、古平町ほど豪快なものは珍しい

移り変わる社会の中で、伝統文化の継承は厳しくある。そして、文化活動を“不要不急”の立場に追いやった世界規模の疫病が、古平町最大の祭り「天狗の火渡り」にも影響を及ぼした。町と人、距離や世代を超えて、長く、深くつながるこの祭りを守る人たちがいる。
長谷川みちる-text 伊藤留美子-photo

猿田彦は僕らのスーパースター

後志管内・古平町。かつて鰊漁を中心とする漁業で栄えたこの町には、人口の倍以上の人々が集まる祭りがある。毎年7月第2土曜日の前後を含む3日間(令和4年度は7月8〜10日)に斎行する琴平神社例大祭だ。宵宮祭、海上渡御(とぎょ)、陸上渡御などの祭事が行われるが、見どころは何と言っても神輿行列。そして、そのクライマックスを飾る天狗の火渡りである。

「火くぐり」「火渡り神事」「御渡入り(みといり)」とも呼ばれるこの神事は、罪穢(つみけがれ)を忌火(いみび)で祓(はら)い、清めるためのもの。御神輿渡御は年に一度、御神輿に乗った氏神が社(やしろ)を出て氏子の人々の生活を直接見て回り、その巡行中の罪穢を清めてから再び社に戻る…という意味がある。そして、社が安全に罪穢れを祓えるように火渡りの先陣を切るのは、御輿行列を率いる天狗の役割だ。

天狗の正体は猿田彦という神様で、『記紀』(古事記と日本書紀)の天孫降臨譚で邇邇芸命(ににぎのみこと)の道案内役として登場するので一度は耳にしたことがあるかもしれない。『サルタヒコ考』を執筆した飯田道夫氏によれば猿田彦の役割には諸説あるようだが、“お稲荷さん”、“白髭明神”、“庚申”など全国各地でさまざまな呼び名を持っていて、日本の信仰の世界では身近で人気のある神様らしい。

琴平神社の境内にある「庚申」の石碑(写真:長谷川みちる)

古平町の住民にとっても、猿田彦はスーパースター的な存在だという。そう教えてくれたのは、琴平神社氏子総代会長の福津隆範さんだ。

「猿田彦を演じることは、古平町で生まれ育った男の子たちの夢なんです。いっときは後継者になりたい人が多くて、選定委員会を開かなくてはならないほどでした。役は3年演じて一区切りするのが一般的かな。世代を越えて猿田彦役を継承している家もあって、今年の演者の五十嵐竜太さんもそういった伝統を繋いでいる1人です」

歴代の猿田彦を演じた皆さんが飾られている(写真:長谷川みちる)

町民の期待が集まる火渡りは、例大祭の2日目と3日目に斎行される。いつもは穏やかな海辺の街が、この日だけは浮き足立っているようだ。普段は子供たちの遊び場になっている公園には、あらゆる世代が集まり、町内外のカメラマンたちが早々に陣取りをして行列が現れるのを待ち構えている。

かつては神社の側に柾屋(まさや)という屋根の梁材を打ち付ける職業があり、火渡りのために端材を1年間ストックしておいたそう。建築分野の技術革新などの影響から柾屋がなくなり、現在は札幌の建材メーカーから集めている(写真:長谷川みちる)

笛と太鼓の音色とともに1日かけて町を練り歩いた神輿行列が到着すると、周囲の空気がスッと引き締まるのが分かった。火渡り斎場の中心に準備されたカンナ屑の山に火がくべられると、瞬く間に数メートルもの高さに炎が舞い上がる。警塩係(けいえんがかり)、大麻係(おおぬきがかり)が順番に炎を祓い清め、獅子舞が祓いの舞を踊る。そして、ようやく猿田彦の出番だ。

この間、火を絶やさぬよう休みなくカンナ屑がくべられていく。篝火の前に進んで卍を切り、燃え盛る炎の中に手鉾を差し込み、安全を確かめる猿田彦。炎が小さくなれば首をふり、「もっと燃やせ!」の指示。会場からはどよめきと「いいぞ!」の拍手が沸き起こる。これ以上は無理だろうと思えるほどの猛火になった時、猿田彦が炎をめがけて突き進んでいった。

猿田彦役を務めるのは町内の30~40代の男性。それぞれの家で猿田彦の所作、立ち振る舞いにこだわりと伝統がある。行列では猿田彦の前を横切ったり、家の2階から見下ろすことが禁じられている

白髪と白髭をたっぷりと蓄えた面に、朱色の狩衣をまとい、右手に手鉾、左手には中啓(ちゅうけい)と呼ばれる扇子。一本歯の下駄で悠々と進んでいく。炎に照らされてギラリと黄金に光る瞳とその佇まいに、誰もが釘付けになった。

猿田彦の後には、大榊、獅子舞、御神輿が続く。獅子舞を演じる中学生の勇気に拍手が贈られ、炎を前に躊躇する大榊のやり取りに笑いが起こる。そして、火渡りを締めくくる御神輿の力強さに大きな歓声が上がった。

神事でありながら、エンターテイメント。この祭りが町民に切望され、憧れの象徴になる理由が分かった気がした。

迫り来る伝統芸能の継承・伝承問題

琴平神社の御神輿渡御は150年ほど前から続いている。京都から御神体を下附(かふ)されたのが慶応3(1867)年。翌年に神殿と拝殿を竣工し、明治13年(1880年)頃には始まったのではないかと推定される。平成12(2000)年には町指定無形民族文化財に登録され、琴平神社祭典神輿渡御行列保存会が保存・伝承を担ってきた。ただ、天狗の火渡りの由来については正確な情報が少ない。昭和24年に発生した大火により、資料が全て消失してしまったからだ。

奴(やっこ)行列も特徴の一つ。保存会では、奴・猿田彦・獅子舞・楽人の演技者養成、伝承者の研修や後継者の育成、演技作法や演目用具の記録・保存などを担う。(提供:古平町教育委員会/古い写真を転写)

自らも渡御に参加し、祭典委員長も務めてきた琴平神社常任相談役の横野治さんの記憶や、町に残っている資料を掘り返して得た情報の限りでは、現在のような“活気ある”スタイルで火渡りが執り行われるようになったのは大正8(1919)年の大火がきっかけとなっている。

この災害からの復興を祭りの力で盛り上げるため、規模を拡大し、天狗の所作に松前神楽の振り付けやお囃子を取り入れてシフトチェンジ。同時に、猿田彦の衣装の生地を変えるなどして火渡りを始めた…という町民の話が残っている。少なく見積もっても1世紀の間、火渡りは続いてきたと考えられそうだ。

楽人による大榊の火渡り

神社運営や祭りを中心になって支えてきたのは、漁業者たちだ。古平町をはじめ後志管内の漁師町は鰊漁で栄えてきた歴史があり、多くの漁業関係者が暮らしていた。漁師の仕事は「板子一枚、下は地獄」と言われるように死と隣り合わせだったこともあり、神社の役割、そして祈祷やお祓いは今よりもっと重い意味を持つものだったのだろう。

かつてはワンシーズンで億万長者になるのも夢物語ではなく、“御殿”が建つほど鰊を取り巻く交易が行われていた後志地域だが、明治35(1902)年をピークに漁獲量が減少。産業構造の変化と同時に少子高齢化や人口流出も顕著になり、町の行事や文化継承にも影響が現れ始める。

(写真:長谷川みちる)

「特に琴平神社の経営は漁師からの寄付金で成り立ってきた側面が大きく、今でもその慣例が残っています。町民が1万人いた時期もありましたが、現在の人口は2800人ほど。町内の高校が廃校になり、町外で就職する人も増えています。そのような中で、祭りを持続的に運営していくのは簡単なことではありません」と横野さんは説明する。

神輿渡御に関わる約180人の食事の準備、衣装や道具類の整備、海上渡御の許可申請、協賛企業集め…。3日間のために1〜2カ月は準備に追われることになる。行列や火渡りの表舞台に立つ人材を育てると同時に、裏方として伝統芸能・文化の継承を誰が担っていくのか。これらは古平町だけではなく、多くの地域が抱えている課題でもあるだろう。

道民に親しまれた、もう一つの伝統芸能

実は古平町にはもう一つ、全道・全国的に知られる伝統芸能がある。民謡の『たらつり節』だ。北海道5大民謡の一つとして数えられるこの歌は、古平町が発祥の地と言われている。作詞・作曲されたのは昭和33〜34年頃。古平町民で漁師だった故・大島豊吉さん、故・田村栄蔵さんにより生み出された労働歌だ。

当時の鱈漁は2トンほどの小舟に乗り込み、人力と風力で3時間かけて漁場まで向かったという。コンパス、ましてや魚群を見つけるレーダーもない時代。12月から3月の寒さが最も厳しいシーズンに、早朝2時から夕方5時までの長時間、さえぎるものが何もない極寒の海上で作業を続けるのだから想像するだけで過酷だ。実際、毎年のように遭難者が出ていたそうで、まさに命懸けの職業だったことが伺える。

漁業の辛さ、厳しさが歌詞に込められている。もともとは『たらつり口説き節』というタイトルだったが、札幌の民謡グループの寺崎英二(香月)さんにより歌いやすく編曲された(提供:古平町教育委員会)

漁の様子や苦労を歌詞に載せたたらつり節は、民謡グループ『古平白章会』を中心に歌い継がれ、全道へと波及。全国大会も開催されるほどだった。町民が自費で碑を建てるなど、たらつり節に寄せる思いや期待は大きかったと推察するが、残念ながら歌い手としての後継者を繋いでいくことは叶わなかった。現在、たらつり節は踊りとして町民に親しまれ、『たらつり踊り保存会』によって継承されている。

鱈釣り作業の仕草を盛り込んだ『たらつり踊り』は、小樽市の藤間扇玉さん、作詞作曲者の大島さん・田村さん、白章会の小竹博さんなどにより制作された。小学校でも練習し、町民にとってはポピュラーな伝統芸能(提供:古平町教育委員会)

私自身は古平町出身ではないが、幼少の頃に民謡を習い、たら釣り節を歌っていたことがある。何度も練習したおかげか、大人になった今でも口ずさめるほど記憶に定着している。もしも伝統文化に“縦と横”、“点と線”という継承の概念があるとするならば、歌には遠く離れた場所へ点を打ちながら、周囲(横)へと波及していく強さがあると感じる。そういった意味では、たらつり節は町内の継承という枠組みを超えて、確かに繋がりを残してきたのではないだろうか。

祭りは“文化資本”を醸成する

対して祭りは、“縦”と“線”の継承を強く結ぶのかもしれない。

「盆と正月は帰省できなくても、祭りの時期には戻ってくる」「当日は仕事があるが、御輿だけでも担ぎに帰りたい」という古平町出身者たちが、全国各地から集まってくる。それが、世代という縦の線を繋いで続いているのだ。

宮司や巫女の皆さん、保存会メンバー、企業、町役場などたくさんの人たちが祭りの開催のために汗をかいている。皆の思いや願いを乗せて、若者たちは神輿を担ぐ

御神輿渡御は、2019年に発生した新型コロナにより2年間の中止を余儀なくされた。そして、2022年。行事やイベントの再開に厳しい判断が下される地域が多いなかで、琴平神社は祭りの再開にいち早く踏み切った。

「多くの方から、ぜひ今年こそは開催してほしいとの声を本当にたくさんいただきました。新型コロナについてはさまざまな意見や考え方がありますが、感染対策に取り組んだ上で私たちの町ではやるべきではないかと決断しました」と横野さんは経緯を説明する。

神輿渡御参加の年齢制限はない。今年の行列には中学生から70歳の町民が加わった

もし3年の間に一度も祭りを開催しなければ、古平の魅力を体感せずに故郷を離れていく若者たちが出てくる。それは伝統芸能にとって、町にとって大きな損失になりかねない。コストや手間がかかっても継続する価値がある、汗をかく意味があるという町民たちの強い意志が伝わってくる。

2年ぶりに神輿を担ぐ若者たち。火渡りを前に篝火に向かって深々と一礼する姿が印象的だった

最後に福津さんは、「町を離れて故郷を思うとき、真っ先にこの祭りが思い浮かぶ。そんな先人たちが残してくれた“無形のまちづくり”を、私たちも繋いでいきたいんです」と御神輿渡御に寄り添う思いを語ってくれた。

150年もの間、参加者と運営者の双方が途絶えなかった理由の一つは、御神輿渡御・火渡り神事が「町の魅力を語ることのできる“文化資本”としての人材を醸成する場所」としての役割を果たしているからではなかろうか。そしてそれこそが、現代における祭りの存在意義であると思えてならない。

参考文献
・『サルタヒコ考 猿田彦信仰の展開』飯田道夫、臨川書店
・『古平町史』古平町史編纂委員会編
・『せたかむい 82号』古平町史編纂委員会
・『札幌古平会80周年記念誌 ふるさと』札幌古平会
・『たらつり節』問谷隆好編

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