1991(平成3)年9月。利尻島の南西部、仙法志(せんほうし)長浜地区の自治会館で、「獅子頭 仙法志」と墨書された大きな木箱が発見された。現在は長浜神社がある、海を見おろす丘の上での出来事だ。
見つけたのは、『利尻町史通史編』(利尻町)のために民俗調査に当たっていた、利尻町立博物館学芸員の西谷榮治さんと、北海道開拓記念館(現・北海道博物館)の氏家等、舟山直治両学芸員。その日に先駆けて氏家さんたちは、長浜に由緒のわからない獅子頭があるようだ、という情報をもたらしていた。はたして箱の中には、獅子舞神楽で使われる獅子頭に加えて、猩々(しょうじょう)と猿田彦の面、そして鉦(かね)が入っていた。
しかし専門家の目にもそれは見たことのない獅子頭で、まず長い顔に太い眉が力強くうねっている。さらに頭部に一本の角があり、角は中間で段になっていた。大きな目と耳、そして鼻があり、鼻の穴はぎゅっと上を向いている。西谷さんはそれが、なじみのあった利尻町の北見冨士神社や仙法志神社の黒く四角い獅子頭とはまるで違うことにとまどった。
猩々とは、人の言葉を解して酒に目がない中国の説話上の猿だ。この面は、くすんではいたもののまだ鮮やかな赤色で、能面を思わせる面差しにうっすら笑みを浮かべ、天狗の原型ともされる猿田彦もまた、赤い顔料がきれいに残っていた。
以前から集落には、鳥取から渡ってきた祖先が持ち込んだ獅子頭がどこかにあるはずだという語り伝えがあったという。引き継ぐ人もなかったこれがそうなのか? しかしその獅子頭がどんなものなのか、知る人はすでにいなかったのだ。
わずかな手がかりとして、明治期に鳥取東部から長浜地区に渡ってきた人々(因幡衆)の子孫である森本清栄氏(当時83歳)が健在だった。西谷さんらが自宅を訪ねたところ森本さんは、子どものときに叔父に教えられて舞ったことがある、ということがわかった。12才のころ、1918(大正7)年あたりだ。
西谷さんは、北海道や本州の獅子舞神楽の調査を始めた。すると明治10年代後半に同じく鳥取からの移民が入った釧路の鳥取地区でも、この種の獅子頭を使う舞があることを知った。
鳥取から釧路への移民は利尻とは違って旧士族が中心で、その数100戸以上。時代に取り残された旧士族を救済する枠組み(移住士族取扱規則)での移住だった(農業指導のためにほかに数戸の農家もいた)。移住民は鳥取村(1954年に釧路市に合併)を開き、鳥取神社をふるさとのシンボルとして心の拠り所としていく。
鳥取という糸口を見つけた西谷さんは、鳥取県立博物館へ問い合わせた。するとすぐ答えが出た。それは鳥取県東部、因幡(いなば)で舞われている、「麒麟(きりん)獅子」という獅子舞神楽だった。「古事記」にある、あの「因幡の白うさぎ」の因幡だ。一般の神楽獅子とはまったくちがう不思議な風貌は、中国の説話上の霊獣、麒麟だったのだ。
因幡に伝わる麒麟獅子は、麒麟の獅子頭と、地を這うようにゆっくりと動く独特の所作で知られた二人立ちの舞で、鳥取藩の初代藩主池田光仲が鳥取東照宮の祭礼に登場させたのが始まりとされている。2019(令和元)年には日本遺産「日本海の風が生んだ絶景と秘境 ―幸せを呼ぶ霊獣・麒麟が舞う大地『因幡・但馬』―」の指定を受け、20年には、国重要無形民俗文化財、「因幡・但馬の麒麟獅子舞」として認められた。
釧路の鳥取神社で麒麟獅子が最初に舞われたのは1940(昭和15)年。紀元2600年(昭和15年)を記念して鳥取神社に奉納するために、麒麟獅子舞保存会が立ち上がった。一方で利尻では、すでに明治の終わりから大正にかけて舞われていたことになる。西谷さんの探究心はますます熱くなった。
だが、いつ誰がどのようにしてこれを利尻島に持ち込んだのかがわかるには、さらにもう少しの時間が必要だった。
5年あまり経った1996(平成8)年の秋。鳥取県では、明治大正期に北海道に渡った鳥取県人の調査が行われようとしていた。調査を利尻町にも導いたのは、利尻町立博物館。同館は、利尻島に関する専門的で多様な調査研究を助成することを目的に、島外の研究者などを招く事業を行っている。この事業に、鳥取のふたりの研究者が応募した、「鳥取県からの北海道・利尻島移住調査」が採択されたのだ。
進められた調査によって、利尻島に麒麟獅子があることが鳥取側にも知られるようになった。そこから鳥取と利尻の関わりがあらためてひもとかれ、麒麟獅子や地域史研究に関わる人との繋がりも生まれていく。ふたりのうちのひとり、岡村吉彦さんは、鳥取市秋里にある荒木三嶋神社の神主も務めていた。不思議な因縁にも思えるが、西谷さんが鳥取のことを調べていたころ、鳥取でも近代の移民調査で北海道本島や利尻のことを調べようという動きがあったのだ。
生存する唯一の麒麟獅子の経験者だった森本さんの一族は、祖父金太郎の代に鳥取市甲山、現在の里仁(さとに)から長浜に渡ってきた。1894(明治27)年のことだ。25名ほどの同郷人といっしょだったが、これに先駆けて北海道で成功した仲間に率いられての移住だった。その成功者は、因幡から小樽に渡り、井戸掘りの仕事で大金を手にしたのでさらに利尻に乗り込み、コンブや鰊粕(肥料)を買い付けて大もうけしたという。俺たちも続くぞ、と勇躍旅立った中に森本さんの祖父がいたわけだ。
しかし里仁に麒麟獅子はない。
森本さんに獅子舞を教えた叔父(母の兄・伊佐田長蔵)は、里仁から東、千代川を越えたとなりまちの秋里(あきさと)に生まれた。秋里のことを調べると、はたしてそこの荒木三嶋神社に麒麟獅子があった。利尻に渡った麒麟獅子は秋里から来て、森本さんは荒木三嶋神社の麒麟獅子舞を教わったのだった。
明治期に、はるか北方の利尻島に麒麟獅子が伝えられていた—。
この発見は鳥取でも大きな反響を起こした。往時の獅子頭が残っていたことが、人々にまったく新たな郷土史の広がりを気づかせ、関係者を驚かせたのだ。
2001(平成13)年夏には秋里から荒木三嶋神社伝統文化保存会(荒木昌会長)の一行が来島。自分たちも全力で手伝うから利尻でぜひ麒麟獅子を復活させてほしい、という強い願いが伝えられた。この時点まで西谷さんは、利尻町立博物館の学芸員の立場で、調査研究の対象として麒麟獅子と関わってきた。しかしここからフェイズが変わっていく。
「単に研究のために復活させることは本義ではありません。私は長浜地区の30代、40代の若手の人々に集まってもらい、みんなで麒麟獅子を目覚めさせてみませんか、と呼びかけました。決めるのはあくまで、長浜で暮らす人々です。となりの地区に暮らす学芸員である私ではありません」
このとき集まった畑宮宗聡さん(現・利尻麒麟獅子舞う会会長)らは、秋里の舞のビデオを見て、すぐやってみたいと思った。
畑宮さんは言う。
「自分が暮らす土地の歴史を掘り起こしながら、麒麟獅子をいま我々が復活させることには、大きな意義があると思いました。それと、ビデオでゆっくりと舞う麒麟を見た感じでは、それほど難しくはないな、とも思いました。あとで、それが大きな間違いだったことを実感するのですが(笑)」
2002(平成14)年秋には、鳥取市の「鳥取三十二万石お城まつり」に参加する秋里の麒麟獅子を視察するために、西谷さんを含めた利尻町教育委員会のメンバーが鳥取を訪れ、交流がさらに広がっていく。
2003(平成15)年春には、麒麟獅子を利尻で復活させるために、いよいよ「利尻麒麟獅子舞う会」が発足。
そのころ、鳥取市歴史博物館では、「移住と移民の歴史展・北海道~故郷鳥取からの旅立ち」という企画展が開かれた。100戸500人以上の旧士族移民があったことから鳥取市と釧路市は姉妹都市提携を結んでいたが(1963年)、その四十周年を記念する企画だった。先述の移住調査もこの企画展の裾野になる。西谷さんは同展の座談会に出席して、利尻でのいきさつを話した。
6月からは、秋里が提供してくれた映像を見ながら、蚊帳(かや)と呼ばれる胴衣や深紅の装束も用意して、獅子頭を使った稽古が利尻町立博物館ではじまった。西谷さんの情報発信に応えて、さっそくテレビが取材に入る。夏には秋里の伝統文化保存会のメンバーが遠路利尻を訪れ、手取り足取りの熱い稽古が繰り広げられた。
地を這うようなゆったりした舞がいかに体に負担で難しい動作であるかを、畑宮さんらは痛感していくことになる。さらに困難だったのは、篠笛だった。リードを持たないシンプルな和楽器だから、まず思うような音を出せるまでが難関だ。鳥取に直接ルーツをもつことから笛を担当することになった森本佳仁さんは、秋里の奏者が演奏する指の動きを撮影したビデオを何度も見直して、指の動きをあらわす自己流の楽譜を作った。ほどなく西谷さんも篠笛に挑戦していくことになる。
ほかに西谷さんは、鳥取との連絡調整や事務作業を担当した。
「まわりには、それが学芸員の仕事か? という疑問もあったかもしれません。博物館は歴史の遺産や遺物を残して保存、展示、研究していくことが仕事です。でも私はもうひとつ、文化を創り上げることも重要な仕事のはずだと思いました。地域文化の新たな創造も、博物館と学芸員の役割ではないかと感じたのです」
こうして西谷さんは、博物館学芸員として、さらには「利尻麒麟獅子舞う会」の一人の舞人として、研究者と当事者(研究の対象者)の両面から麒麟獅子に関わっていった。
2004(平成16)年は、利尻の麒麟獅子にとって特別に重要な年になった。
まず1月。利尻のメンバーが舞の稽古と交流のためにはじめて秋里(鳥取市)の地を踏んだ。おおぜいの住民の歓迎を受け、丸二日特訓が施された。これを経てメンバーたちは、自分たちの取り組みの意義をあらためて実感して、舞人としての自信をつけていく。西谷さんは、篠笛奏者のひとりとなっていた。
「素人がいきなり始めたので最初は満足な音色も出せませんでしたが、鳥取にルーツをもつ森本佳仁さんとともに必死に練習を重ねていきました」
そして6月20日。舞台は利尻島、仙法志長浜神社の宵宮祭。
この日の夕刻、ついに長浜で、ほぼ百年ぶりに本格的な麒麟獅子舞が復活した。海の恵みに感謝を捧げ、安全と豊漁への願い込めた、かつての長浜の生活史をよみがえらせる奉納だ。
日本海を見下ろす高台にある神社には、はじめて麒麟獅子を見るために地域の人々もおおぜい集まった。
メンバーが鳥取市秋里へ稽古に行ってからこの復活の舞までのあいだに、加えて大きな出来事があった。利尻の麒麟獅子の由来が解明されたのだ。謎を明かしたのは、森本昌幸さん。大正7年ころに長浜で麒麟獅子を舞った記憶を持っていた、森本清栄さんの子息だ。
旭川在住の森本昌幸さんは、麒麟獅子を復活させるために島のメンバーが鳥取に渡るという報道にふれて、父がこの獅子舞について語っていたことを思い出した。そして居てもたっても居られなくなった。そこで急遽、鳥取から渡った親族の子孫たちから大車輪で聞き取りを行い、獅子頭がいつどのようにして島にもたらされたのかという難問を解いたのだ。
森本昌幸さんによれば、明治27年に鳥取(因幡)から渡ってきた家々の中心は、すでに利尻の海産物で長者となっていた坂口勝次郎というリーダーだった。移住メンバーには、その実弟で森本家に入った金太郎もいた。金太郎の娘ノブは、4歳のときに両親と利尻に渡っていたが、やがて同じく移住メンバーにいて長浜で船大工をしていた宮松與治郎と結婚する。1908(明治41)年ころだという。結婚後ふたりはまもなく鳥取に里帰りをしたが、利尻に帰島するさいに麒麟獅子を持ってきたのだった。大きな荷物になる麒麟獅子を、なぜわざわざ持ち帰ったのだろう。
森本昌幸さんは考えた。祖父金太郎は、大正前半には仙法志村(元・利尻町仙法志)の議員や長浜地区の区長を務めることにもなる、地域のリーダーだ。長浜での暮らしが落ち着いて心にゆとりも生まれてくると、ふるさとの麒麟獅子を島に根づかせようと考えた。そして麒麟獅子の道具の調達を因幡に残っている両親らに依頼したのだろう、と。もともと森本家の先祖は神職に関わっていたという。
利尻に渡ってから15年ほど経って、麒麟獅子を島で舞うことを決めた金太郎。西谷さんはこの時間のブランクの意味をずっと考えてきた。そして鳥取での聞き取りも行った結果、こう結論づけた。
「因幡から見ればさいはての異郷に渡って来た人々は当初、この島でしっかり稼いでやがて帰ろうと思っていたのでしょう。往時のほとんどの人たちはそうした出稼ぎだったのですから。それがやがて、島での暮らしが日常として重ねられるうちに、自分たちはこの島で生きていこう、という覚悟が固まっていった。そのとき、心のより所として麒麟獅子を舞おうと決断したのではないでしょうか」
北方の自然と直に向き合う厳しい環境でも、利尻には人々を養う海の天然資源が豊富にあった。
西谷さんは利尻町の広報誌「広報りしり」で四半世紀以上にわたって、島の人々からの聞き書きを続けてきた。『利尻の語り』としてまとめられたその第2回(1986年)では、鳥取の秋里から渡ってきた移民の二世伊佐田省三さんが、明治の終わりにかけての島の豊かさを語っている。
曰く、豊漁がつづくニシンは肥料の〆粕に加工するために大量の薪が必要なので、木を切って薪を売るだけで生活ができた。ニシンの群来(くき)は海藻におびただしい卵を付けるが、それが浜に打ち寄せられると(ホマという)、それをまた釜で焚いて肥料にするだけで家族が暮らせた。昆布もたくさんあったから、昔は何をしても儲けることは簡単だった。
過去の史実は、天のどこかにあるアーカイブに整然と並べられているわけではない。それは、現在を生きている人々がその場で問い直すことではじめて、歴史としての生命を持つものだろう。そして過去もまた、そのことで現在を問い返し、いま生きている人々に新たな力を授けていく。明治期にこの島に南からはるばると渡ってきた人々は、その時代をどうとらえ、何を語り合い、日々をどう暮らしてきたのか。その歴史の入り口を見つけたことで長浜の人々には、新たな気づきとたくさんの学びがもたらされた。
2022年6月20日18時。
コロナ禍によって2年間行われていなかった長浜神社での麒麟獅子舞が、3年ぶりに行われた。次回は利尻島とこの獅子舞について、さらに掘り下げてみよう。