開拓民の悲劇と後世への希望を舞う「苫前くま獅子舞」

「苫前くま獅子舞」の獅子頭ならぬ羆(ヒグマ)頭

五穀豊穣や大漁、無病息災の祈願。獅子舞には人々の豊かな暮らしへの希望が込められている。獅子という伝統的な霊獣によってもたらされる明るい喜びと一線を画すのが、実在した羆(ヒグマ)を題材に、現代の地域の人々によって創作された「苫前くま獅子舞」である。
柴田美幸-text 黒瀬ミチオ-photo

急速に進められた内陸部の開拓

道北の日本海に面する苫前町は、港まちのイメージが強い。だが、内陸部には町の総面積の約85%を占めるという森林が広がっている。明治20年代後半から大正初期には入植者による開拓が盛んであり、その内陸部で起きた「三毛別(さんけべつ)の羆(ヒグマ)事件」は、ヒグマによる史上最悪の惨劇として語り継がれてきた。それだけでなく、獅子舞という郷土芸能のかたちで残されているのが大変珍しい。実際に人へ害をもたらした動物を題材にし、獅子頭までクマにしたというのは、おそらく他地域では例がないだろう。

舞台上でのくま獅子舞。目が不気味に光る(写真提供:苫前町教育委員会)

まず、「くま獅子舞」が生まれた背景をたどってみよう。
苫前町は、江戸時代から松前藩そして幕府によってトママイ場所が置かれ、明治時代までニシンを主とする豊かな漁場として栄えた。一方、内陸部の古丹別(こたんべつ)川の河岸の土地は肥沃で、蝦夷地の幕府直轄時代にトママイを領地とした庄内藩によって農業が試みられている。そのときは成果を上げるまでいたらなかったようだが、明治10年代に開拓のため入植した人々によって本格的に農業が始まった。
1886(明治19)年に北海道庁が開設されると、急速に内陸部の開拓が進められていく。1895(明治28)年には、古丹別川流域の古丹別原野が入植地に選定された。一定の大きさに区画が決められると、翌年に多くの入植者がやってきた。碁盤の目になった区画ごとに国から土地の貸付け(国有未開地貸付)を受け、開墾すれば自分の土地にできるからである。北海道の住所によく見られる「線」や「号」はその名残だ。古丹別原野には、2年後の明治30年になると200戸を超える農家が入植していた。貧しい小作農が多く、自分の土地を持てるという夢を抱いた人々が郷里を捨てて北海道へ渡ったのである。
その後も入植者は増え続け、1905(明治38)年、さらに原野の奥深く、古丹別川の支流である三毛別(さんけべつ)川流域にあった御料地(皇室所属の領地)の、農地としての貸付けが始まる。三毛別川の支流ルベシュペナイ川(当時は御料川とも呼ばれた)流域の谷で、今は三渓(さんけい)という地名の「苫前村大字力昼(りきびる)村三毛別御料農地六号新区画開拓部落六線沢」。歴史的な惨劇の舞台となった地だ。

谷あいの集落を襲った惨劇

現在、集落があった場所に事件当時の雰囲気が復元されていると聞き、町の歴史にくわしい伊藤通康さんの案内で現地を訪れた。苫前町の市街地から10kmほどのところに古丹別地区があり、さらに19kmほど山あいに入っていく。だんだん道幅が狭くなり鬱蒼とした林道を進むと、ぽっかりと広場が現れた。一軒の草囲いの開拓小屋に、巨大なヒグマが今にも襲いかかろうとしている。もちろんヒグマは作り物で少々誇張された感はあるが、記録には体長2.7m、体重約340kgもの巨体だったとあり、襲われた恐怖の大きさがかたちになっているとも言える。

途中にある三渓神社の入り口に建立された、羆事件の犠牲者の慰霊碑。施主の大川春義さんは事件当時7歳で、家がヒグマ討伐本部となった。犠牲者のために100頭のヒグマを仕留めると誓い熊撃ちになり、生涯で102頭を仕留めた

鬱蒼とした森の中に復元された開拓小屋。本来はこの右側に馬小屋がついているというが、中は大変狭く暗い。ここにヒグマが入ってくると逃げ場がない感じだ

この六線沢と呼ばれた地には、明治43年ごろ近隣の開拓村から移ってきた15戸が入植していた。めぼしいところは開墾され尽くしてしまったため新たな農地を求めたのだろうか。事件は1915(大正4)年12月9日・10日にかけて起こった。前述のような巨体のオスのヒグマが次々と人家を襲い、女性と子ども7人を食い殺したのだ。
復元場所は、襲われた家々があったところから2kmほど奥につくられており、環境が似ているところが選ばれたという。最初に襲われた太田家は一般的な草囲いではなく板囲いの家で、開拓小屋としては立派だったそうだが、ヒグマにはなんの障害にもならなかった。そのあとも女性と子どもたちが避難していた明景(みよけ)家で妊婦を襲うなど惨劇が繰り返されたが、12月14日、ついに一人の猟師によって撃ち取られる。羆事件の顛末は、作家の吉村昭によって『羆嵐(くまあらし)』という小説になり、ドラマ化もされたので知る人は多いだろう。

市街地にある「苫前町郷土資料館」は羆事件の展示が中心で年間5000人が訪れる。事件の復元では男性の人形が置かれているが、実際は女性と子どもだった

伊藤通康さんは、苫前町教育委員会にいた経験を生かし郷土史研究会の会長などを務める。くま獅子保存会では事務局長を務め、照明を担当している

地域独自の「くま獅子舞」の誕生

こうした強烈な、いわば負の出来事が獅子舞というかたちになった経緯はどのようなものだったのか。
きっかけは、意外にも炭鉱の閉山だった。苫前町に隣接する羽幌町には、築別炭鉱・羽幌本坑・上羽幌坑の3山からなる羽幌炭鉱があったが、1970(昭和45)年に閉山。このとき苫前町の古丹別神社が、築別炭鉱にあった大山祗(おおやまずみ)神社(築炭神社)から獅子頭を2つもらい受ける。翌71年、獅子舞の手ほどきを受けた20数名が、この獅子頭を使い古丹別神社祭で舞ったところ、地域の人々に大変喜ばれたという。
ちなみに大山祗神社の山神祭では、神輿と獅子が練り歩きぶつかり合う「練り合い」というものが行われていたようだ。2016年の羽幌神社例大祭で48年ぶりに復活した「炭鉱みこし」では、この練り合いが行われている。羽幌神社の「羽幌加賀獅子舞」でも赤獅子と青獅子による練り合いが行われる。羽幌には、金沢の獅子舞である加賀獅子が伝えられた。加賀獅子は胴体の蚊帳(カヤ)の中に大勢が入る百足(むかで)獅子で、棒振りという役目が獅子と戦うしぐさをし、最後に討ち取ることから“殺し獅子”と呼ばれている。
ただ、古丹別神社がもらい受けた獅子頭が同じルーツを持つと直ちにつなげて語ることはできない。羽幌には越中(富山)に由来する獅子舞などの芸能も多数あり、苫前町の資料には「越後の流れをくむこの獅子頭を利用して古丹別の獅子舞を作り出そうと…」とあるからだ。このように、北海道ではさまざまな源流を持つ芸能が重層的に存在する。
いずれにせよ、最初は伝統的な獅子舞だったのが、創作のくま獅子舞へ変わったのはなぜだろう。「地域の特別な獅子舞をつくろう、という思いがあったからです」と、苫前町くま獅子保存会会長を務める花井秀昭さんは言う。三毛別の羆事件は、比類なき悲惨さと遺族への配慮などから公に語ることが長くはばかられてきた。しかし、地域の人たちは獅子舞に託して後世に残すことを選ぶ。1973(昭和48)年、有志や古丹別神社役員などによって「苫前町くま獅子保存会」が設立され、「苫前くま獅子舞」が初披露された。ユニークなのは、伝統的な舞やお囃子をただ踏襲するのではなく、ストーリー性を持たせ、獅子頭も獅子からヒグマに変えるなど一からオリジナルで作り上げたところだ。
初期の羆頭を見せていただくと、凝った作りの木彫で、アート作品と言えるような素晴らしいものである。花井さんによると、「もうお名前はわかりませんが、上川町の上川ポンモシリにいたアイヌの木彫り職人によるものと聞いています。断られても、何度も頼んで作ってもらったそうです」。職人は、その熱意と理由に心打たれたに違いない。一人ひとり表情が異なる村人12人のお面もその職人が制作した。現在の羆頭は4代目で、器用な会員が手作りしたものである。「苫前くま獅子舞」は蚊帳に2人が入って舞う二人立(ふたりだち)だが、木彫の羆頭はかなり重いため途中で交代しながら舞っていたそうで、プラスチック製にして軽量化を図った。

歴代の羆頭。左の2つ(初代と2代目)は上川の木彫り職人によるもの。右の2つ(3代目と4代目)は軽量化のためFRP(繊維強化プラスチック)による自作

村人のお面も羆頭と同じ上川の木彫り職人が制作。こちらは現在も使われている

舞自体も、当初からかなり変化している。1982(昭和57)年、くま獅子舞を高く評価していた作曲家・桑山真弓氏によって、舞台芸能として再構成された。「声のないミュージカルみたいな感じですね」と花井さんが言うように、3章仕立てで構成されストーリー性がより際立つものになった。同年、苫前町の無形文化財第1号に指定、1986(昭和61)年には北海道文化財保護功労者賞を受賞する。その後、子どもも舞えるようにと振り付けが簡略化されていく。1997(平成9)年には少年団が結成され、大人とは別に子どもたちだけのくま獅子舞が行われていた。
しかし、少子化により10年ほどで少年団は解散。本体のくま獅子舞も担い手不足で一時中断に追い込まれる。復活させたのは、新会長となった花井さんだった。花井さんは大人と子どもで分けずに、さまざまな世代が参加する形式に変え、役も増やした。「たとえば、笹の陰に隠れて助かる子どもの役。俵の陰に隠れて助かったという実話に近づけました」。かつて少年団に所属していた若者も加わり、元々の会員と3世代で現在の会員は20名ほど。毎年10月下旬に行われる公民館フェスティバルで披露している。
来年2023年で保存会設立50年を迎えるにあたり、創立当初の舞の復元を試みたいと花井さんは考えているが、昔の舞を舞ったことがある人が2人しかおらず、映像も見つかっていないため難航しているとか。もし映像を持っている方がいたら、苫前町教育委員会までご一報いただきたいそうだ。

苫前町くま獅子保存会会長・花井秀昭さん。母親の親戚が事件現場に居合わせていたため、母親から事件のことを聞かされていたという

事実を伝え残していくための郷土芸能

多くの郷土芸能と異なり、事実を題材に「苫前くま獅子舞」がつくられた意味とはなんだろうか。
元・古丹別営林署職員でノンフィクション作家の木村盛武(もりたけ)氏が、羆事件について関係者からの聞き取りをまとめた冊子には、事件翌年の1916(大正5)年に、隣村の芸人によって遺族救済の芝居が留萌などで上演されたという記述がある。惨劇のシーンは障子越しに影で表現され、ヒグマの目に豆電球が仕込まれ光るようになっていた。しかし、「真実描写が稚拙」で評判はあまり良くなかったようだ。また、どこか興味本位で見世物のような部分があり、遺族の心を深く傷つけるものであったのではないだろうか。結局、あまり長くは上演されなかったという。
花井さんは、くま獅子舞に込められた思いを次のように語る。
「羆事件で苫前の開拓地を離れた人は多かった。けれども、この地で白いご飯を食べるんだ、と頑張った人がいたから今の苫前があると痛感します。その人たちのためにも、このくま獅子舞を残していく必要があるんです」
そして、苫前くま獅子舞は半世紀にわたり残ってきた。

くま獅子舞は「第1章 開拓の夜明け」「第2章 熊騒動」「第3章 豊かなふるさと」の3章で構成されている(写真提供:苫前町教育委員会)

花井さん(左端)は、お囃子の和太鼓を指導。太鼓で全国的な大会に出場した経験もある。来年40周年を迎える「苫前町豊饒太鼓保存会」に所属しており、昨年は、苫前町の産業・文化等を学ぶ「地域学」という授業で、高校でも和太鼓の指導を行っていた。今年はくま獅子舞を教える(写真提供:苫前町教育委員会)

近年になって大きく変えた部分がある。撃ったヒグマを猟師が押さえつけ、ヒグマが死んで大団円を迎えていたが、最後に死んだヒグマも村人もよみがえり、ともに舞うようにしたのだ。単にやっつけておしまいではなく、ヒグマとの共存というメッセージを持たせたという。原野の奥地まで急速に推進された開拓と羆事件は不可分だったことへの気づきは、今だから表現できることだろう。そして近年も、ヒグマと人との軋轢が問題視されている。このように、時代とともに変化しながら、現在にも通ずる普遍性を持つものが郷土芸能と呼ばれ、地域の希望として後世に残り続けるのかもしれない。

<参考文献>
『獣害史最大の惨劇 苫前羆事件』木村盛武(苫前町郷土資料館)
『慟哭の谷 戦慄のドキュメント 苫前三毛別の人食い熊』木村盛武(共同文化社)
『苫前町史』
『新苫前町史』
『新羽幌町史』
北海道新聞(2010年7月12日、2016年7月11日)
金沢市ホームページ「加賀獅子」


苫前町郷土資料館
北海道苫前郡苫前町字苫前393番地
電話:0164-64-2954
開館時間:10:00〜17:00
開館期間:5月1日〜10月31日
休館日:月曜(祝日の場合は開館、翌日休館)
入館料:一般・高校生310円、小・中学生100円

羆事件復元地
北海道苫前郡苫前町字三渓
見学期間:5月6日〜10月末
※資料館から約30km。見学は自由だが、熊出没注意!

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