時代を動かした北海道の昆布
2013(平成25)年12月、「和食:日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。
四季が明確で、海に囲まれた日本には、それぞれの土地で生まれ、育まれてきた豊かな食の文化があります。和食の土台はだし。昆布はだしの文化を支える重要な食材の一つです。
昆布という文字は奈良時代にはすでにあり、平安時代には「ひろめ」とも呼ばれていました。続日本記にも「昆布」の文字が登場しています。だしは禅寺の精進料理から発達したといわれています。
植物としての昆布をみると、世界には19種あり、そのうち11種が北海道沿岸に生育しています。食用の昆布の産地は圧倒的に北海道が有名で、世界でもほかにはない宝の海に囲まれた奇跡の島ともいえるほどです。
しかし、北海道での昆布の消費量は多くはなく、昆布が採れない富山県が際立っています。富山県では、おにぎりは海苔ではなく昆布(とろろ昆布)でつつむのが一般的だそうです。
こうした昆布の食文化は江戸時代に栄えた広域の流通網「北前船」によって広がりました。供給地としての北海道と、北前船の寄港地そして船主も多くいた富山県との差といえるかもしれません。
北前船の航路は「昆布ロード」とも呼ばれ、北海道で積み込まれたニシンや昆布は日本海側沿岸の各地をめぐり、瀬戸内海から京都や大坂へと運ばれました。北海道の食材と京都の食文化が融合したものとしてはニシン蕎麦が有名です。
昆布ロードはさらに沖縄(琉球)から中国(清)へと延び、日本の時代を大きく動かしていくことになります。その裏には財政難に苦しむ富山藩と薩摩藩の思惑がありました。
当時の中国では甲状腺障害の予防に効果的な昆布に需要があり、そこに目をつけた薩摩藩は琉球を介して中国への輸出を企てましたが、蝦夷から遠い薩摩藩では昆布の入手が難しいため、北前船とつながりの強い富山藩と密かに密貿易を企てます。
富山と言えば今に続く「越中富山の薬売り」。薬の原料は当時、中国からの輸入品に頼っていましたが、中間マージンが多くて高価でした。富山藩にとっても直接の仕入ルートは魅力的だったと思われます。薩摩藩による中国への昆布の輸出と富山藩による薬原料の輸入――二つの藩が手を結びました。
このビジネスは想像以上にうまくいったようで、薩摩藩は莫大な借金を返し、さらに蓄財もかないました。富山藩も相当な利益を生み出したと考えられています。
薩摩藩では昆布貿易によって得た利益を洋式の機械工場群の建設に投じ、「集成館事業」を興します。そこで造られた武器や高められた軍事力によって、やがて倒幕へと時代は動いていきます。北海道の昆布が明治維新へと時代を動かす要因の一つとなったのです。
日本の食文化を支え、歴史の裏面にも登場する北海道の昆布ですが、その漁獲量は年々減少し、昨年は1万トンを割り込みました。昆布は今も大切な産業であり、北海道は世界のどこにもない宝の島なのです。