
初期の柳もち製造風景(札幌駅立売商会所蔵)

初期の柳もち製造風景(札幌駅立売商会所蔵)
日本のお菓子のルーツは、果物にあるという。たしかに果物を水菓子と呼んだり、垂仁(すいにん)天皇の命を受け常世の国から非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を不老長寿の果実として持ち帰ったという田道間守(たじまもり)は、兵庫県豊岡市の中嶋(なかしま)神社に菓祖神として祀られている。爾来、唐菓子、点心、南蛮菓子などを包摂しながら、和洋多彩な菓子文化が形成展開されてきた。
北海道で早くから人が集住した、松前・江差・函館の道南三湊。18世紀後半の松前・江差の滞在記録『東遊記』(平秩東作)に、松前の菓子事情が出てくる。「菓子屋なく、婦人の業にて、銘々菓子を製し置て、賓客のまうけとす。家々に菓子を作る器物有」。道南では各家で菓子の木型を保有し、くじら餅やべこ餅なども手づくりしてきた。
松前(福山)藩は参勤交代で江戸とつながり、伊勢屋の羊羹や三浦屋のボーロを幕府に献上した。ただそうした上菓子は上級武士や大商人の贈答用が主だったようだ。ちなみに安永5(1776)年創業の三浦屋は平成14(2002)年まで営業していた。
道内創業の現役最古参は、秋田出身の佐々木吉兵衛が万延元(1860)年に創業した函館の千秋庵総本家。千秋庵はその後、小樽、旭川、札幌(現千秋庵製菓)、帯広(現六花亭)、釧路にも店を出し、道内菓子界に役割を果たす。
千秋庵総本家に次ぐのが、丸缶羊羹で知られる江差の五勝手屋本舗。さらに、なか川菓子舗(函館)、ヤマタ田畑菓子店(古平)、いよだ(砂川)、三星(苫小牧)、丸井榮餅(函館)、三八菓舗(札幌)をはじめ、明治創業の現役店だけで20以上。創業百年をこえる菓子店は悠に30をこえる。
かつて駅のホームでは生菓子や半生菓子も立売され、それを筆者は“駅生”と呼ぶ。明治13(1880)年の手宮-札幌間開通以降、道内には毛細血管のように鉄道網が張りめぐらされた。広い北海道は移動に時間がかかり、小腹も空く。そこで生まれたのが駅生で、格好の手土産にもなった。
開通初年にあらわれたのが銭函駅の「甘酒まんぢう」で、これは北海道の駅弁第一号でもある。その後各地に広まり、大正から昭和初期の最盛期にはかなりの数が現れ、その多くを餅・団子・饅頭の「駅生御三家」が占めた。

明治13年発売「甘酒まんぢう」昭和初期の掛け紙
北海道の特色に、道外からの移住者が持ち込んだ諸文化がある。駅生では札幌駅で明治39年に発売された「柳もち」があり、手がけた洲崎庄次郎は石川県金沢市須崎町(現洲崎町)からの移住者だった。石川には古くからあんころ餅文化が根づき、金沢駅で売られた一つが「柳餅」だが、現在その名を伝え残す駅生菓子は移住先の札幌にしかない。
深川駅の「ウロコダンゴ」も、高橋商事初代高橋順治の出身地である新潟県北蒲原郡水原町(現阿賀野市)の「椿餅」がルーツ。大正2(1913)年に留萌線開通を記念して発売された。当初は「椿団子」であったが、駅長の名と同じだったため、留萌から積み込まれたニシンからウロコダンゴに改称。椿餅は今も阿賀野名物として健在だ。駅生以外では、旭川の「旭豆」(明治35年)も飛騨高山の「三嶋豆」が手本になった。
昭和40年代以降、停車時間の短縮その他を背景に駅売業者は激減する。その結果、現在道内に残る駅生は前出の2つと、「えべつまんじゅう」(明治18年・江別駅)、「煉化もち」(明治35年・野幌駅)、「大沼だんご」(明治38年・大沼駅)、「バナナ饅頭」(明治38年・池田駅)、「栗まんじゅう」(昭和6年・栗山駅)だけになった。
明治から昭和初期にかけての時期には、月寒あんぱん、澤の露、ビタミンカステーラ、きびだんご、山親爺をはじめ、今も残る多様な菓子が生まれている。
北海道の菓子が大きく動き出すのは、1970年代以降の昭和後期。詳細は後述するが、「ホワイトチョコレート」(帯広千秋庵)、「白い恋人」(石屋製菓)、「マルセイバターサンド」(六花亭)、そこに「生チョコレート」(ロイズ)が加わり、北海道土産の柱が出揃う。
平成に入ると生キャラメルブームが起こり、その後はチーズタルトなどいくつも新たな菓子が登場。そして令和の今を象徴するのが、札幌駅直結の百貨店や新千歳空港で目にする菓子行列だろうか。チーズ系や生クリーム系を中心に、地域・売場・時間・数量などを限定した販売が、列が列を呼ぶ状況を生み出している。
最近はそうした新菓子をいただく機会が増えた。自分が食べたい以上に、話題の菓子を誰かにおすそ分けしたい、そんな心情が行列を伸ばしているのだろうか。人に贈りたくなる菓子はヒットする。それは、手土産としても重宝されてきたお菓子の位置づけに、そのまま重なって行く。
食は味覚だけでなく、視覚、嗅覚、触覚、聴覚を合わせた五感で味わわれる。食器や空間のたたずまい、人との会話など、様々な要素がそこにかかわってくるのだ。お菓子の味わいは、パッケージやネーミングからすでに始まっている。
道民になじみ深いパッケージといえば、何が浮かぶだろう。アイヌメノコが描かれた「旭豆」、「山親爺」の漆黒の丸缶、紅葉と団子に短歌を添えた「大沼だんご」、ハートに利尻富士がそびえる「白い恋人」。さらに「きびだんご」「大賞飴」「ビタミンカステーラ」「フルヤウインターキャラメル」等など、どれも道民にとってのソウルパッケージだ。
たとえば谷田製菓(栗山)の「日本一きびだんご」。発売は大正12(1923)年、折しも発生した関東大震災の復興祈願と北海道開拓の精神を、仲間と手を携える桃太郎一行の姿に重ね、パッケージにした。本家岡山のきびだんごとは形状も異形の、黍を使わないきびだんごだ。品名と親しみやすいデザインで、昔も今も手軽な携行食として重宝される。
農作業のおやつとして絶大な人気を得てきたのが、大正10年発売の「ビタミンカステーラ」(高橋製菓・旭川)。そのままかぶりつくワイルドなカステラ菓子で、農繁期にはデメンさんのおやつとして、箱単位で注文が殺到した。日本一きびだんごとともに、その朴訥な姿はなんとも北海道的といえようか。

谷田製菓「日本一きびだんご」

高橋製菓「ビタミンカステーラ」
元祖キャラメル王国は佐賀県だった。明治32(1899)年に創立した森永製菓「ミルクキャラメル」の森永太一郎。明治期に新高製菓を創業し「バナナキャラメル」などを発売した森平太郎。昭和2年に日本初の食玩付き「おまけ付きグリコ」を売り出した江崎グリコの江崎利一。いずれも佐賀の出身である。
その御三家に伍して全国進出したのが札幌の古谷製菓だ。大正14(1925)年にフルヤミルクキャラメルを発売。昭和6年には斬新なアイデアを盛り込んだ「ウインターキャラメル」を発売し、今も冬になると復刻版が話題に上る。
そして大正11年に創業した小樽の池田製菓は、昭和27年発売の「バンビミルクキャラメル」が大きな転換点となった。パッケージにはディズニーの長編映画「バンビ」のキャラクターを使用。大ヒットした日本映画「ALWAYS 三丁目の夕日」では、昭和30年代の東京下町を象徴する存在として、バンビキャラメルの暖簾が活躍した。
もう一つがサイコロキャラメル。昭和2(1927)年に明治製菓から発売されたが、2016年3月で終了。だがその3ヶ月後に、昭和56年から全量製造していた函館の道南食品が、自社商品として復活させた。土産物売り場に並ぶ多様なキャラメルの多くは道南食品の製品だ。古谷製菓・池田製菓・道南食品のキャラメルの印象的なデザインは、道民だけでなく日本の菓子界のソウルパッケージともいえそうだ。

古谷製菓、池田製菓、道南食品など北海道のキャラメル各種
和菓子の文化は、茶の湯との関わりを抜きに語ることができない。点心の一つとしての菓子の発展と定着は喫茶の風習の拡大と強く関係している。茶道と菓子の密なつながりを軸に、京都や金沢などで和菓子文化は発達深化した。一方、そうした文化の流入が遅かった北海道では、労働の活力源となる餅菓子やだんご・饅頭以外の、いわば上菓子に親しむ習慣は限られていた。
明治に入ると政府の文明開化政策により、洋風の食材や調理法が流入し、菓子においても西洋菓子の技術導入が進む。開拓とともに生産が拡大した北海道の農産物には、菓子なかでも洋菓子の原材料となるものが多くあった。ビート、小麦、小豆などの豆類や、生乳、牛乳、チーズ。良質の食材が身近に豊富にあったことも、菓子作りの大きな追い風となった。
道外で菓子屋の前を通ると、「北海道産小豆を使用」などと書かれたハリガミが張り出されているのを頻繁に目にしてきた。さらには「十勝産〇〇」など、より詳細な産地や品種が示されるようになる。そのトータルとして、北海道の菓子というだけで差別化に浴する姿は、全国のデパートで頻繁に催される「北海道物産展」の図抜けた集客力が教えてくれる。
背景には、農牧業に関わる人たちの日々の積み重ねがあるが、菓子についてはもう一つ。和菓子文化が根付く余裕がなかったことが、新たな取り組みを促す土壌の形成につながったともいえるかもしれない。いわば“周回遅れのトップランナー”である。
筆者の菓子体験の中で、最大の衝撃が白いチョコレートだった。1970年代半ば、十勝に出かけた叔父から帯広千秋庵(現六花亭)のホワイトチョコレートを土産にもらったのが始まり。以来出かけるたびにそれをせがみ、やがて自分で車を運転するようになると、それを買うだけのために日勝峠を越えた。ただ色が茶から白に変わったのではない。根本的に新しい味覚がそこに現れたのである。
昭和43(1968)年に発売されたそれは、当時大量発生していたカニ族の口コミなどで道外に発信された。NHKの「新日本紀行」で取り上げられ一躍注目された幸福駅ブームとも相まって、人気に拍車がかかったのである。

初期のホワイトチョコレート(帯広千秋庵→六花亭)。坂本直行画
ホワイトチョコ効果はそこで終わらない。昭和51年に、ラング・ド・シャ(フランス語で猫の舌の意)という焼き菓子の間にホワイトチョコを挟んだお菓子が発売された。石屋製菓(札幌)の「白い恋人」である。さらに翌52年には帯広千秋庵が、ホワイトチョコにバターやレーズンなどを混ぜた「マルセイバターサンド」を発売。マルセイバターサンドは帯広千秋庵から「六花亭」への社名変更の記念菓子として売り出された。ホワイトチョコはこうして、北海道を菓子大国に押し上げる起爆剤となった。

マルセイバターサンド(写真提供:六花亭)
スノーベル(札幌)やホリ(砂川)の「とうきびチョコ」もホワイトチョコをコーティングした菓子だ。そしてホリの夕張メロンピュアゼリー、カルビーのじゃがポックル、北菓楼の開拓おかき、きのとやの札幌農学校をはじめ、北海道の菓子は着実にその厚みを増してきた。そして令和の今も新たな行列菓子が次々生まれ、北海道がお菓子大国になったワケを現在形で語り続けている。
かくして百花繚乱の甘味絵巻を繰り広げてきた北海道のお菓子ワールド。その歩みをたどるだけでたっぷり楽しめるのだが、最後に筆者がはまってきた楽しみ方を加えておきたい。
お菓子からも、地域性(独自性)と普遍性を読み取ることができる。なかには両方を併せもつものもあり、その一つとして、札幌の丸井今井百貨店で昭和27年から実演販売されてきた「とうまん」を取り上げる。
とうまんは、唐饅頭の一種。唐饅頭とは、熱した金属板の上に銅製のリングを置き、そこに小麦粉等を水で溶いたタネを流し、餡を入れて焼き上げた菓子のこと。由来は詳らかでないが、愛媛県の宇和島などで古くからつくられる郷土菓子としても知られる。
元来はすべて手作業だが、戦後に福岡県古賀市の城野鉄工所が「キノ式自動唐饅頭焼機」を製作。機械を設置すればどこでも同様の饅頭が作れるようになった。とうまんはその札幌版だ。神戸の大丸百貨店で実演を見た増本庄太郎と前田重義が、中央創成小学校(現資生館小学校)のPTA活動資金を得るために始めたのが出発点。二人はその後冨士屋を立ち上げ現在に至る。

回転しながら「とうまん」を焼き上げるキノ式自動唐饅頭焼機
機械があれば可能なので、昭和20年代以降全国各地に同様の饅頭があらわれた。秋田の「金萬」、京都の「ロンドン焼」、鹿児島の「金生饅頭」、東京や関東圏は「都まんじゅう」。材料や配合はそれぞれでネーミングも多様。普遍性と独自性が併存しながら、それぞれの土地の名物になってきた。
道外に行ったとき、伝統銘菓や人気の新菓子を賞味するのは楽しみだが、どこにもある菓子のその土地ならでは味とネーミングを楽しむのも、旅の醍醐味のひとつだ。
表面にカラフルな印刷が施された缶は、美術缶とか化粧缶と呼ばれる。外気を遮断し汚れや湿気から守ることで品質を保持。食べた後は小物入れなどに再活用されてきた。
塊炭飴(赤平)、炭礦飴(赤平)、澤の露(小樽)、水昌飴(小樽)、トラピストクッキー(北斗)、バター飴(八雲)、白い恋人(札幌)…。北海製罐(小樽)の美術缶は、道内の菓子たちに無二の付加価値をもたらしてきた。道内だけでない。青森の伝統菓子「津軽飴」や「南部煎餅」の缶も手がけている。

赤平の赤の「塊炭飴」(石川商店)と青の「炭礦飴」(日高屋製菓)の美術缶

利尻富士が描かれた石屋製菓「白い恋人」
千秋庵製菓の「山親爺」の丸缶は、ふたを開けると色や形の異なる栞が次々あらわれた。菓子の由来や特徴の他に、船山馨、堀口大学、中村汀女らの文人が、菓子に寄せた一文が認められ、銘菓につきものの栞文化のまさに宝箱だったといえる。そして最後に山親爺の愛らしい人形がコロリとこぼれ出た。

栞や熊の人形が入っていた「山親爺」の黒丸缶(札幌千秋庵製菓)
お菓子は包装紙でも味わえる。画家が手がけたものも多く、六花亭は坂本直行で、同じ帯広の「そばやき」で知られる竹屋製菓は棟方志功。北見の大丸では、鷲見憲治が描いた道東の風光が「ほっちゃれ」を包んだ。
また「大判焼き」の高橋まんじゅう屋(帯広)に行くと、昭和10(1935)年の詳細な「帯広市案内図」。その包装紙が帯広の時間旅行に誘った。菓子とともにさり気なく手もとにやってくる紙片や容器は、旅から戻ったあとの日常もふくらませてくれる。

棟方志功が描いた「そばやき」(竹屋製菓)の包装紙
地域限定や期間限定、さらには店舗限定、時間限定をはじめ、特別感の演出で付加価値を添える試みが盛んだ。冷凍技術の格段の向上に伴い、たいていの菓子はどこにでも変わらず届けられる。だが七飯町の「大沼だんご」や小樽の「花園だんご」は、それが叶わない文字通り自然体の賞味限定菓子だ。
北海道を象徴するのが、冬季限定の銘菓。代表格は、初雪とともにあらわれ雪融けとともに消える「雪太郎」(三八製菓・札幌)と、手で持つと体温で曲がり始める「大賞飴」(谷田製菓・栗山)。販売時期も場所も限られるそれらは、昨今の限定菓子とはまたひと味違う異世界菓子。一度ご賞味いただきたいが、残念ながら次の冬を待つしかない。
筆者ははじめてのまちに行くと菓子屋を探す。店内に並ぶ地元で親しまれてきたお菓子たち。そのネーミングとパッケージを眺めるだけで土地の歴史と物語が動き出す。今回登場した菓子は道内では広く知られてきたものが中心になった。可能なら、各地に息づく菓子たちと直接対話しながら、店の人に聴く菓子語りを隠し味に、北海道のまち文化の深奥を菓子文化を通して味わっていただきたい。

塚田敏信(つかだ・としのぶ)
まち文化研究所代表。赤平市生まれ。札幌篠路高校教諭を経て藤女子大非常勤講師等。商店街、銭湯、市場、百貨店、食堂、菓子などを調査研究。著書に『いらっしゃい北の銭湯』(北海道新聞社)、『ほっかいどうお菓子グラフィティー』(亜璃西社)、『百貨店』(共著・まち文化研究所)ほか。連載に「まち歩きのススメ」「まち文化あれこれ」「小樽まち文化めぐり」等。2024年より旧寿原邸内に「小樽まち文化博物館」を開設。