
この季節、週末と月曜日にだけ開くグランマ・ヨシエの店頭。手書きのPOPがお出迎え

この季節、週末と月曜日にだけ開くグランマ・ヨシエの店頭。手書きのPOPがお出迎え
辻村淑恵さんが2010(平成22)年に開いた焼き菓子工房「グランマ・ヨシエ」は、地元の素材を軸にした良質で飾らないクッキーやパウンドケーキなどを、作り手の顔が見える範囲で誠実に提供している、知る人ぞ知る人気店だ。地元の人々にとっては、誇らしくも愛すべき手作り工房と言えるだろう。立ち上げたいきさつを聞いたところ、始まりは息子さんとその友人たちのために焼いていたおやつにあるのだという。1970年代にさかのぼる話だ。
「わが家は志文小学校のすぐそばで、子どもたちのたまり場のようになっていました。農家の子が多くて、そういう子は家に帰っても両親は農作業をしているので、居場所がなかったのです。息子より先に来て、さっさと上がり込んで待っている子もいました(笑)」
まだコンビニも登場せず、スナック菓子も珍しかったような時代。淑恵さんは、せっかく家に集まってくれる子どもたちを、せめておいしい手作り菓子でもてなそうと考えたのだった。小麦粉を農協から業務用サイズ(25kg袋)で買うことがルーティンになる。

岩見沢で愛されるグランマ・ヨシエの人気商品。マドレーヌやパウンドケーキ、フレーククッキー
辻村家は、1892(明治25)年から志文の開拓に取り組んだ、地域の草分け。淑恵さんの義理の祖父にあたる辻村直四郎(1869-1941)は、空知の歩みに必ず名前のあがる、いわゆる開拓功労者だ。辻村家は戦後の農地改革によって所有する農地の大部分を手放すことになったので、淑恵さんが嫁いだ1972年当時は小規模な兼業農家であり、夫の定世さんは札幌市役所に勤めていた。
このころ、高度経済成長を経て日本の食卓は西洋化が進み、肉や乳製品の消費が増えたほか、加工食品やインスタント食品が普及していった。ハンバーグやパスタが家庭の定番料理になるのもこの時代からだ。
そんな空気の一端を、岩見沢市農協若妻会の文集「かたらい・第5編」(1980年)から拾ってみよう。
ある若い主婦は「迷路」と題した文章で、大きく変化した社会と未来への展望を少し不安げに綴っている。曰く、戦争が終わって35年がたち、時代は大きく変わった。圃場では馬がトラクターに替わり、肥料散布や代掻きなども楽々とできるようになった。田植えも機械化されて、コンバインや除草剤など、作業は夢のように近代化された。日本は消費が美徳とされる、少し前までは想像もできなかった経済大国に成長している。しかしその一方で、子どもの殺人事件や自殺のニュースが私を憂鬱にさせる―。
「米価も思い通りに上がらず休耕転作を推し進めるシワ寄せ農政、いわゆる猫の目農政と農業基本法も赤旗同然(※危険信号)のような現在でありますが、一体今後の農業はどのようになるのでしょう」
1970年代。農協の婦人部では、変容していく農家の生活を支援するいろいろな取り組みを行っていた。そのひとつにあったのが、ピース天火の啓蒙普及だ。現在では見ることもないが、ピース天火とは、ガス台(都市ガス・プロパンガス)に乗せて直火で焼き菓子やローストチキンなどが作れる、画期的なオーブン。電気やガスを作った本格的なオーブンに比べて低価格で手軽なのが魅力となり、全国的にヒットした。
岩見沢市農協婦人部で講習を受けた淑恵さんは、さっそくピース天火を購入すると、盛んにお菓子を焼くようになる。パウンドケーキやロールケーキ、クッキーだ。長男の耕一さんは、小学校にあがる前から、これらが大好きな定番おやつだったと言う。そして小学生になると、母の自慢のおやつは、仲良したちにもふるまわれることになる。いつも大好評だった。

工房での辻村淑恵さん
淑恵さんはやがて子育て(耕一さんとふたりの妹)が一段落すると、大学の通信講座で司書資格を取得して、岩見沢市立図書館の司書として働き始めた。そのかたわら、市民文芸誌「文学岩見沢」の編集事務局の仕事を担い、さらには寺田文恵の名で自ら創作にも取り組むことになる。
その後旧栗沢町(現・岩見沢市)の来夢21図書館(現・岩見沢市来夢21)でも司書のキャリアを重ねたが、平成の大合併で栗沢町と北村が岩見沢市になると(2006年)、岩見沢市立図書館に戻る。そこで定年まで勤めたあと、2010(平成22)年にグランマ・ヨシエを立ち上げたのだった。当初は旧辻村邸の玄関先を改装し、2012年には敷地内の国道に近い場所に小さな独立店舗を建てた。
同居の義父が病に倒れて農業を閉じたので畑仕事はなくなったものの、からだを壊した夫と高齢の義母のケアに奮闘する中で、長かった勤め仕事を終えた自分の、新たな居場所がほしいという思いもあったという。
「昔のわたしは毎日お菓子を楽しく作っていたなぁ、と思い出して、なんだかまたやりたくなったのです」
「グランマ・ヨシエ」の焼き菓子には、岩見沢志文に根ざした、そんな営みの時間や思いが練り込まれている。

グランマ・ヨシエ店内と辻村淑恵さん

風味もやさしい、グランマ・ヨシエのパウンドケーキ。左から「抹茶」「ミックスフルーツ」「チョコレート」「クルミ」

薫風のように軽やかな、グランマ・ヨシエのシフォンケーキ。左から「オレンジ」「輪島の塩」「紅茶」
札幌の藤女子短期大学の家政科で学び、栄養士の資格も取得していた淑恵さんは、子どものころから洋菓子に惹かれていた。岩見沢での子ども時代に、今でも忘れられない思い出がある。
「お友だちが、彼の叔母さまの家に連れて行ってくれました。フランスで絵を学んだこともある婦人で、ちょうどクグロフというケーキを焼いていました。王冠のような型を使います。完成に近づくにつれて、濃厚なバターの香りがたまりませんでした。でも焼き上がっても、その方は私たちに『さあ召し上がれ!』、とは言ってくれなかったのです。なぜっ?!」
「とても悲しかったのですが、でもそもそもクグロフは、十分に粗熱をとってから型からはずして、粉砂糖を振ってようやく完成するわけです。そのときはそんなこと全く知りませんでした(笑)」
子ども時代のおいしいお菓子の記憶は、誰にとっても強烈だ。
小学校入学前から淑恵さんの焼き菓子を食べていた息子の耕一さんにとっても、淑恵さんの味は、おおぜいの友だちやふたりの妹と食べた楽しい時間を蘇らせてくれる。
「妹たちもやがて自然に焼き菓子を作るようになりました。また、いまも当時の友だちに会うと、『辻村のお母さんはなんだかいつも粉まみれだったような気がする』、と言われます(笑)」
時代を少しさかのぼろう。
ピース天火などで家庭で手軽に焼き菓子が作られるようになる以前。1950年代から60年代初頭の子どもたちを喜ばせたお菓子は、なんといってもキャラメルとチョコレートだった。戦後の食糧不足のために敷かれていた砂糖や乳製品の統制が解除されると、戦前には大人向けの嗜好品として作られていたキャラメルとチョコレートが、平和の時代のベビーブーム世代を大きなマーケットに得て、一気に大衆化する(本田和子「変貌する子ども世界」)。
焼き菓子はどうだろう。
本企画でも登場している塚田敏信さんの「ほっかいどうお菓子グラフィティ」(亜璃西社)によれば、「サカクッキー」というブランドでも知られる坂栄養食品(株)が札幌にいち早くビスケット工場(現在の西区二十四軒)を立ち上げたのは、1955(昭和30)年だった。
ちなみにクッキーとビスケットの違いは微妙だが、全国ビスケット協会では、クッキーは糖分・脂肪分が全重量の40%以上で、手作り風の見た目のもの。それを満たさない場合はビスケット、と定めている。
市販のお菓子の種類と商店は限られていて、道内各地に大手メーカーのクッキー類やプリッツ(江崎グリコ)など、大量生産された焼き菓子が子どもに行き渡るのは、それからもう少し先だ。
ピース天火以前の子どものおやつが垣間見える記事が、1971(昭和46)年の北海道新聞の家庭欄(5月24日)に載っている。そのころの時点で少しなつかしい時代の駄菓子を家庭で作ってみよう、という企画だ。紹介されているのは、ザラメ糖を煮溶かして作る「カルメ焼き」、サツマイモを砂糖水で煮詰める「サツマイモの砂糖づけ」、揚げた食パンを火にかけた黒砂糖の砂糖水にまぶしつけた「かりん糖」。
淑恵さんが札幌でのOL生活にピリオドを打って岩見沢の辻村家に嫁いだのは、札幌オリンピックがあった1972(昭和47)年。コンピューターゲーム機もコンビニエンスストアもないこの時代は、北海道の食卓やおやつ事情も今とはずいぶん違っていた。全日本菓子協会の菓子統計資料にスナック菓子というジャンルの項目が登場するのは1973年だ(本田和子「変貌する子ども世界」)。
また、例えばその時代の北海道新聞の早春の料理連載記事「北の食卓」(1977年4月)は、身近にあるこの時期ならではの野草の旬を食卓で楽しもうと呼びかけている。エゾエンゴサクやカタクリ、ユキザサ(アズキナ)、ドングイ(オオイタドリ)、そしてギボウシなどだ。市街に暮らす人にとっていまエゾエンゴサクやカタクリはもっぱら郊外で見て楽しむものだし、ユキザサやドングイ、ギボウシと聞いてピンとこない人も少なくないはずだ。少なくとも現在の多くの札幌市民にとっては、4月にこれらをどっさり採ってきて、自宅でおひたしや和え物にすることは考えにくいだろう。
しかし今とは違うそうした時代に我が子らのためにたくさんクッキーを焼いたのは、家政学を学んだ淑恵さんにとっては、とても自然なことだったのではないだろうか。

毎年5月が近づくと、北海道の野原はカタクリやエゾエンゴサクで彩られる。それらは食卓に、待ち遠しかった春を告げる美しい喜びの食材でもあった(札幌近郊の防風林)

1983(昭和58)年の辻村邸。背後から住まいを囲んでいる鬱蒼とした森が、子どもたちにとっては無限の遊び場だった
さてテレビゲームもない時代。小学生の耕一さんたちはいつも辻村家に集まって、何をして遊んでいたのだろうか。
耕一さんは、もっぱらみんなで家の森にいたという。
「木に登ったり、基地を作ったり、2B弾(※玩具花火)を鳴らしたり。別に何か道具を使って決まったゲームをするというよりも、ただ森の中で走り回っていたというか。冬でも当然、雪の中で遊んでいました」
広さ1.5ヘクタールほどもある辻村家の屋敷林は、戦前(1932年)には北海道林業会主催の「防風林及屋敷林品評会」で名誉賞を受賞し、1968年には「岩見沢市の美林」の指定を受けている。ハルニレの巨木が開拓以前の原風景を偲ばせながら、防風防雪のために初代の当主(辻村直四郎)がドイツトウヒなどを植林して手を加えていった、時代を経た現在の志文においては特別の意味や価値を持った森だ。たくさんの生きものたちの営みもあるそこを舞台にすれば、子どもたちにはさぞや無限の遊びがあったことだろう(この森については以前のカイでふれている)
辻村直四郎の四男、淑恵さんの義父太郎の弟である辻村朔郎は随筆集「楡こだち」(1966年)で、大正半ばの開拓地の遊びを回想している。
冬は父に作ってもらった木のそり遊びや雪玉ころがし。春は崖下の清水まわりの土遊び、夏の虫採り。そして外ではご馳走にも事欠かない。朔郎は、果物というものはわざわざもいで持ってきて家で食べるものとは思っていなかった。つまり、「桜んぼは桜鳥(※ムクドリか?)と一緒に白い糞を頭からかけられながら木の上でもぎながらたべるものと思っていたし、苺は畑で鶏がつついてないやつを探してたべるもの、グスベリは痛いとげの潅(かん)木の間にもぐって、もいではたべるものだと心得ていた」

繁栄する16世紀のアントワープの一角でおびただしい数の子どもたちが思い思いに遊ぶ、ピーテル・ブリューゲル「子供の遊戯」(1560年) ※パブリックドメイン(ウィキペディア)、公開日2008年5月1日)
この森で遊ぶ往時の子どもたちの日常を想像すると、話はかなり飛躍するけれど、16世紀フランドルの画家ピーテル・ブリューゲルが描いた「子供の遊戯」を思い浮かべてみたくなる。1980年前後の北海道にあった子どもの世界の奥行きを、新たに見渡すための補助線だ。
眼を凝らすとこの絵にはまず、「木登り」や「でんぐり返し」、「ぐるぐる回り」といった、古今東西のどんな子どもでもするような遊びが描かれている。
美術史家森洋子の「ブリューゲルの『子供の遊戯』」によれば、ここでは約250人の少年少女たちのグループが、91種類の遊びに興じているという。森教授は、画家はこの絵の中に子どものユートピアを描こうとしたのではないだろうか、と言う。ブリューゲルはまず、理性が未成熟な人間を子どもとして寓意的にあらわしながら、加えて民俗学者のように丹念にフランドルの遊びを収集して、失われつつある遊びの広場を復活させた。そして同時代の人々に改めて遊びの本質を問うたのであろう、と論考している。

春の辻村家の屋敷林。林床をオオハナウドなどの若葉が覆い、あいだを縫ってニリンソウやエゾエンゴサクが咲き急ぐ(2024.04)

6月の屋敷林では、結実したハルニレの種が林床をびっしりと埋めている(2024)。ここをかつて子どもたちが走り回っていた情景が、ありありと想像できるだろう
はたから見ればどんなに意味がないように見える遊びでも、子どもたちにとっては、ひとつひとつに固有の世界があるだろう。柔らかい皮膚や伸びやかな感性が自然の事物や現象に直接ふれることで、彼らのみずみずしい日々は重ねられていく。国や時代を問わず、子どもの遊びには人間社会の楽しさやエネルギー、あるいは危険や難しさや理不尽さまでが満ちているのだ。
(社)青少年交友協会野外文化研究所はいまから40年近い前の1988(昭和63)年に、「野外伝承遊びの実態調査」というレポートを発表している。調査では、すでにテレビゲームに追いやられて野外伝承遊びが評価されなくなっているという問題を挙げた上で、「野外伝承遊びは、祖父母から親、親から孫へと伝えられ、自然環境や地域社会ともかかわりが深く、基礎体力を作り、生活文化の伝承に役立つ」、と論じる。それは「ふるさとへの親愛感や物事に対する感動、優しさ、悲しみといった豊かな感情、集団の中での人間関係の調和などを育む大切な幼少年時代の体験」なのだ。
レポートでは全国での野外伝承遊びの変遷が調査されているのだが、全世代に共通して、かくれんぼ、鬼ごっこ、縄跳び、といった遊びが上位を占めている。地域の違いでは、北海道では雪あそび、いなご(※バッタ)採りが多く、10代前半の道民では、みこしかつぎ、盆踊り、けんけん相撲が全国よりも色濃くカウントされている。このあたりに来ると、コンピュータゲームが主役の現在との違いに戸惑うばかりだ。
わずか数十年前においても、地域にはいまとはまるで違う日常があった。そのことをあらためて意識するとき、子どもとお菓子をめぐるたくさんの小さな挿話と挿話の隙間から、地域に向ける新たなまなざしが生まれていくことが実感できると思う。

辻村家の当主直四郎が1921(大正10)年ころに撮影した、屋敷林の中の息子たち。右に淑恵さんの義父辻村太郎。左に本文でふれた朔郎。太郎らにとっても当然、屋敷林は無限の遊びの王国だった
北海道岩見沢市志文町286番地
営業時間/冬期を除き土・日・月曜日10:00〜15:00(不定休有)
※グランマ・ヨシエの焼き菓子は、岩見沢観光物産拠点センターiWAFO(イワホ)・(岩見沢市4条西2丁目ナカノタナ市場)や、そのショッピングサイトなどでも買うことができる。