サイドストーリー「グランマから始まる志文の物語」-2

地域史への深くおいしい入口。「万字炭山」

往時の万字炭鉱のズリ山を緑地化した「万字炭山森林公園」。2400段以上もの階段を上ってたどり着く頂上(標高380m)からの眺望が魅力。遠望するカラマツ林の新緑が美しい(2026.05.11)

全国には地域の個性や魅力の数だけ銘菓があるだろう。もちろん北海道でも事欠かない。北の菓子を名乗るのにふさわしいモチーフのひとつが、昭和の時代の石炭だ。グランマ・ヨシエの「万字炭山」から、岩見沢の炭鉱史の一端をなぞってみたい。
谷口雅春-text&photo

その名は「万字炭山」

シニア世代の北海道人の多くは、この島が日本の近代化を支えた石炭の大産地であったことを実感として覚えているだろう。この特集に寄せれば当然、石炭をモチーフにした菓子も珍しくなかった。いまも愛されている代表的なものが、赤平の「塊炭(かいたん)飴」だ。1932(昭和7)年に赤平の石川商店が発売したもので、煮詰めたビート糖と水飴からニッキ独特の風味が香り立つ。
そして時代が下った現在。岩見沢市志文のグランマ・ヨシエにも、岩見沢の炭鉱史に根ざした人気商品がある。その名も「万字炭山」。かつて栗沢町(現・岩見沢市)にあった万字炭鉱にちなむ、ココアのプチケーキだ。
ラズベリーの果粒とチョコチップによる繊細なつぶつぶの食感が楽しめて、中心にある赤いラズベリーの果肉が、豆炭の熾火(おきび)をイメージさせる。グランマ・ヨシエの辻村淑恵さんが、岩見沢の歴史風土にちなんだ新たな菓子を作ってほしい、というリクエストに応えて2014年に創作したのだった。

文化庁選定の日本遺産「炭鉄港」でも人気。グランマ・ヨシエの「万字炭山」


黒いケーキの中の赤いラズベリーは熾火(おきび)のイメージ

かつてグランマ・ヨシエがある志文から国鉄万字線が直結していた万字炭鉱は、岩見沢の中心市街から東の山間(やまあい)に入って25キロほどの距離にあった。戦後の最盛期には地域に5千を超える人々が暮らすまちを作り上げたものの、1976(昭和51)年に閉山している。
「栗沢町史」によれば、炭鉱は当初東京の事業家朝吹英二が所有する鉱区だった。1903(明治36)年にそれを北海道炭礦鉄道(株)が譲り受け、1905年に朝吹家の家紋である「卍(まんじ)」にちなんで「万字炭鉱」と命名。同年から事業に着手した。夕張第一坑の支坑(万字抗)として出炭がはじまったのは、1909(明治42)年だ。

さらに町史を引くと、深い山中を拓いて建てられた最初の鉱員住宅は、長大な一棟を羽目板で20戸に割ったいわゆる棟割長屋が二棟。一戸は一部屋だけで、押し入れも天井も物置もない。やがて大正期に入ると商店も進出して市街(万字仲町)が形成されていく。鉱員住宅もようやく寝室のある二間で、羽目板も二重になり、天井が張られるようになっていった。しかしいずれにしても、石炭を掘り出す坑内はもとより住宅のようすを知るだけで、往時の労働環境の苛烈さは、現代の我々の想像を超えているだろう。
「万字炭山」とは、万字炭鉱を中心にしたまちの営みの全体をとらえた通称で、グランマ・ヨシエのプチケーキもその名を継いでいる。
石炭は当初、地獄の沢の上の選炭場から、山越えに6キロほどの索道(空中ケーブル)を設けて夕張へ運び出され、そこから鉄路(のちの国鉄夕張線)で小樽港へ向かった。
日本有数の埋蔵量を持った石狩炭田には、万字と夕張のあいだにある峰延山地と平行するように奔別(ぽんべつ)断層が走っていて、これを境に北の空知と南の夕張では地層や炭質が変わっているという。この違いが、のちに万字炭鉱の命運を夕張より早く終わらせることになる。
事業環境が劇的に変わるのは、1914(大正3)年。国鉄万字線が開通して、掘り出された石炭は鉄路で室蘭まで運ばれることになった。

万字炭山森林公園の一角には、ホッパー積込設備のコンクリートの基礎部分がいまも残る。アーチの下に線路が引き込まれていた


国鉄万字線廃線後の1986(昭和61)年から鉄道公園となった旧朝日駅。現在は、かつて小樽築港で働いていた小型の構内蒸気機関車B201が移設保存されている

炭鉱が鉄路を張り巡らせた時代

万字線が開通することで、炭鉱がいよいよ着実に発展する時代が幕を開ける。
しかし鉄路が誕生した1914(大正3)年の時点で、北海道炭礦鉄道(株)は北海道炭礦汽船(株)と社名を変更し、さらに三井財閥に編入されていた。どういうことだろう。
まず北海道炭礦鉄道は明治40年代、万字を筆頭に、同じく幌向川に沿った美流渡(みると)や東幌内でも炭鉱開発が見込まれることから、室蘭線から分かれる支線として万字線鉄道の建設を計画していた。
室蘭線(現・室蘭本線)とは、三笠の幌内炭鉱と夕張で生産される石炭を、日本海側の小樽に加えて、太平洋側からも安定して出荷するために北海道炭礦鉄道が建設した鉄路だ(1892・明治25年室蘭・岩見沢間開業)。しかしその後1906(明治39)年の鉄道国有法によって、室蘭線は国有化。これによって万字線の新たな敷設は、一転して国の事業となったのだった。
鉄道院はこの路線を、室蘭線の志文駅(1902・明治35年開業)から分岐する、石炭輸送が主目的の軽便鉄道として建設することにした。先にあった木材搬出用の馬車軌道が開いたルートも活用したという。駅は、志文を出て上志文駅、美流渡、万字、万字炭山の4駅。朝日炭鉱の出炭が本格化した1919(大正8)年には、現在は万字線鉄道公園として整備されている朝日駅が設置された。

鉄道国有化の背景を整理しておこう。
近代国家としての日本の成り立ちが試された日露戦争(1904-05)を経て政府は、鉄道インフラには国の一元管理が必要であるという方針を立てた。そこで全国の主要私鉄を政府が買い上げる、鉄道の国有化が始まる。北海道では北海道炭礦鉄道が所有していた幌内-手宮、夕張-追分、岩見沢-室蘭間の鉄路が買い上げられたので、同社は巨額の資金を得ることになった。そしてこの資金をもとに1907(明治40)年、英国アームストロング・ホイットワース社と同ヴィッカース社との共同出資で、室蘭に日本製鋼所を設立した。北海道炭礦鉄道はほかに海運をはじめ、電灯、コークス、煉瓦、山林などにも事業を拡張して、社名も、北海道炭鉱鉄道(株)から北海道炭鉱汽船(株)に改められた(略称「北炭」)。生産する石炭を自社の汽船で運ぶことも主力事業となる。
北炭は1909(明治42)年には室蘭に輪西製鐵場を開設して、50トン溶鉱炉に火入れを行った。現在の日本製鉄(株)北日本製鉄所室蘭地区の源流だ。
しかし一方で、炭鉱・海運・重工業の会社への転身を図ったものの、北炭は鉄道という安定収益を失ったことで炭鉱開発や重工業への膨大な資金繰りに苦慮することになる。結果1913(大正2)年、九州の三池炭鉱などを持つ日本最大級の鉱業企業で、石炭の販売と輸出入ネットワークを持っていた三井鉱山・三井物産を中心とする三井財閥の支援を受けて、その統制下に入ることになった。以後北炭は三井財閥の企業となるのだった。

1985(昭和60)年の万字線廃線後、万字仲町簡易郵便局として再利用されている旧万字駅(1979年建て替え)。駅を中心に市街が広がっていた

日本の近代の激動をなぞる炭鉱のあゆみ

万字線の開通は深い山中に海の幸をも運び、集落では魚菜市場がにぎわった。さらには木材の搬出にも貢献したので、一帯の木材生産も伸び続ける。もちろん出炭量も右肩上がりだった。
しかし昭和に入ると世界恐慌の余波を受けた不況が炭鉱にも及ぶ。組合もない時代だから、合理化が強圧的に進められ、高齢者や労働運動を起こす怖れのある中等学校出身者、朝鮮人労働者などが解雇されていった。
やがて満州事変(1931年)によって長く苦しい戦争の時代がはじまると、産業は戦時体制に組み込まれ、労働力が戦場に取られていく。炭鉱では足りない人員に反比例して生産増強が厳しく求められていった。

1945(昭和20)年の夏。日本の敗戦でこの日々が終わると、国内のすべての炭鉱は深く重たく疲弊しきっていた。
食糧難の上に苛酷な増産によって坑内は荒れ、資材や熟練工の不足、外国人労働者の暴動など、逆風が吹き荒れて出炭量は激減していく。さらに万字線では1947(昭和22)4月、集中豪雨によって路肩が崩れて機関車と貨車が崖下に落ちるという大事故もあった。
一方で戦後復興への動きも急ピッチで、産業や生活のエネルギーとしての石炭への期待は高まるばかりだった。朝鮮戦争(1950-53年)がもたらした特需もあった。
万字線沿線では相生炭鉱が操業を始め、万字炭鉱と合わせて生産を続ける美流渡炭鉱とともに、大正期に開かれていたが中断を余儀なくされていた、南幌内炭鉱と朝日炭鉱の生産が再開された。政府は石炭と鉄鋼の生産に傾斜的に大規模な投資を行っていく。

万字炭鉱の安全と繁栄を願う人々の願いを集めた万字山神社。1906(明治39)年建立。2度の遷座を経て2005(平成17)年に現在地(岩見沢市栗沢町万字英町1)に

他方で万字炭鉱は当初から湧水や出水に悩まされ、ときに坑道の水没までも起こった。そのために生産が安定せず、北炭は万字を別会社にして経営の立て直しを図る。1960(昭和35)年、組合からの強い反対の声を押し返して、万字炭鉱は独立会社として再出発をめざした(栗沢の美流渡炭鉱、赤平の赤間炭鉱も同様)。
とはいえ世界では石炭から石油へと、文明史が転換していることは明らかだった。1962(昭和37)年には日本で、それまでは規制があった原油輸入の自由化が始まり、全国で炭鉱の生き残り競争が厳しさを増していく。輸送量が伸びない万字線も赤字経営が常態となる。コスト削減のために1968(昭和43)年からはディーゼル機動車の導入が進み、ほどなくして駅の無人化も始まった。
そして1975(昭和50)年の夏。台風6号の豪雨で大量の水が坑内に流入して、主力坑道が水没。これが決定打になり、翌1976年3月、万字炭鉱は閉山となる。従業員は全員解雇された。
沿線の心臓が止まった以上、鉄路の命脈も尽きるしかない。反対運動が熱く繰り広げられたものの、国鉄万字線も1985(昭和60)年3月31日、70年あまりの歴史の幕を閉じた。それから現在まで40年あまり。1965年には2万人を超えていた沿線の人口は、2025(令和7)年では765人になっている。

明治・大正期の希有な経済人朝吹英二。万字とは、当初の鉱区のオーナーである朝吹英二の一族の家紋「卍」に由来した。家紋にちなむ北海道地名は珍しいといえるだろう(出展:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

万字のいわれとなった朝吹英二の仕事

「栗沢町史」などには、万字炭鉱は鉱区の最初のオーナーである事業家朝吹英二(1849-1918)の一族の家紋が卍(まんじ)であったことに由来する、とある。卍は吉祥を意味するから、困難な事業にもふさわしいと考えられたのだろう。では朝吹とはどんな人物だったのか。さらに朝吹と北炭、そして三井財閥はどう関わっていたのだろう。
没後の1928(昭和3)年に、「朝吹英二君伝」という興味深い評伝が出版されている。友人知人、後輩らの手で、朝吹の業績やユニークな人となりを丸ごと軽妙に綴ったものだ。それによれば朝吹は豊前(ぶぜん)の下毛郡宮園村(現・大分県中津市)に、15代つづく庄屋の次男として生まれた。
少年期には尊皇攘夷の思想に傾倒したが、明治初頭、21歳で上京して福沢諭吉の書生となり、慶応義塾で学ぶ。卒業後は三菱商会に勤めた。ほどなく福沢諭吉が岩崎弥太郎と協力して横浜に設立した貿易商会の支配人に起用されている。しかし開拓使官有物払下げ事件に端を発した「明治十四年の政変」によって同社が経営難となり事業縮小。個人でも多額の負債を負った。これで「借金王」と呼ばれるほど困窮したが、その中でも才覚をめぐらせて犬養毅や尾崎行雄らの慶応閥の人脈を経済的に支援する。そうして政財界で人望を高めていった。英二の妻澄子は、福沢諭吉の姉(婉・えん)の娘だ。

42歳で三井財閥の鐘淵紡績の専務に就任。経営再建に尽力し、さらに三井呉服店の専務理事になるなど三井系企業の重役を兼任していく。1900年前後、50代では三井財閥の工業部門の強化に尽力。鉱山、製紙(王子製紙)、紡績など多角的な工業を統括した。のちに万字炭山となる鉱区の権利を得たのはこの時代だ。
ではなぜここを最初から三井が所有しなかったかといえば、その時代の慣習として、鉱区の出願は個人名義で行うことが多かったからだ。
「朝吹英二君伝」ではこの挿話について、「北海道の萬字炭礦は、英二君が三井時代に北海炭礦會社(※ママ)に賣って、大儲けをしたと云はれたものである。所が今日では、毎日一千噸(トン)の石炭を出してをる北海道有數の大炭礦となり、何百萬圓だか値打の知れぬほどのもので、會社に取り英二君は非常な恩人となった」、とある。この本が出版されたころ(1928年)、帝都から万字炭山はこのように見られていた。
この評伝ではほかに朝吹は子ども時代の疱瘡(ほうそう)がもとで生涯あばた顔であったことをはじめ、彼がいかに商才に長け、部下思いで座談の名手のうえ、暇(いとま)があれば花街に入り浸り、和歌を愛し、書画骨董の世界に耽溺していたか、といった挿話が列記されている。竹を割ったような気質と、呆れるほどの粗忽者であったといった振れ幅の大きなふるまいも、多くの人に愛されたのだった。

坑道に入る時間まで待機する万字炭鉱の坑夫たち。静かな緊張感が張り詰める。「PHOTO DOCUMENT万字炭山1966-1989(清信朝男)」より/提供:炭鉄港推進協議会

清信朝男の写真集「万字炭山」と朝吹英二

物語の方向を転じよう。
万字炭鉱が閉山して13年後。1989(平成元)年の春に札幌で出版された一冊の写真集がある。「PHOTO DOCUMENT 万字炭山 1966-1989」。1973(昭和48)年までこの炭鉱(やま)で実際に働いていたアマチュア写真家清信朝男が、万字での仕事の合間に撮り続けた作品集だ。

「PHOTO DOCUMENT 万字炭山 1966-1989」(清信朝男)

路地にあふれる子どもたちの笑顔や、夏休みのラジオ体操。あるいは炭住(炭鉱住宅)にある実家を巣立つ花嫁や、巨大な櫓(やぐら)のまわりに幾重にも集う盆踊りの人波—。頁をめくると、万字炭山に力強い生活の営みがあった日々の坑夫やその家族たちの姿が、いきいきと立ち上がってくる。
そして1976(昭和51)年の炭鉱の終焉。
清信は、新たな生活を求めてまちをあとにする人々の姿を追い、さらに万字線の最後のお別れ式(1985年3月31日)を、人々の沈痛な表情を軸に記録している。ここには、写真家土門拳が1950年代から提唱して全国のアマチュア写真家たちを動かした「リアリズム写真運動」が深く底流しているだろう。それは、同時期に写真集「炭鉱(やま)の生活」を発表した、三井芦別炭鉱に勤務した水田忠信の写真などにも共有される時代の潮流だ。

清信はあとがきで、写真を学んで実践することになったのは万字炭鉱で働いた時代だったと述懐する。その上ですでに消え去ってしまった炭山の軌跡を写真によって復元することが、自分が叶えたかった思いだと述べている。注目したいのは、それが単なる郷愁ではないことだ。清信は、1970(昭和45)年ころからメディアで盛んに取り上げられる炭鉱の話題が、まちの衰退や人々の不安ばかりを照らしだそうとするベクトルを持っていたことに苛立った。だからそうした一面的なまなざしに対するカウンターとして写真集を編んだのだ、と綴っている。

「私自身がこの地に育ち炭鉱に従事し青年期を越えるまで生活した炭住の日常は決して報道される様な不幸な所ではなく、心豊な谷間であった事を、ファインダーを透(※ママ)して伝える回顧録とご理解頂ければ幸いです。」

花嫁と家族たちが、ポンネベツ川にかかる英(はなぶさ)橋を渡っていく。「PHOTO DOCUMENT 万字炭山 1966-1989(清信朝男)」より/提供:炭鉄港推進協議会

石炭からふるい分けられた不要な岩石を積み上げるズリ山。巨大な山容のふもとで、少年たちが野球に興じる。「PHOTO DOCUMENT 万字炭山 1966-1989(清信朝男)」より/提供:炭鉄港推進協議会

1928(昭和3)年に編まれた先述の「朝吹英二君伝」は、バブル経済がピークに達してすぐの1990(平成2)年に、経済叢書(図書出版社)の一冊として復刻された。その解説で縁戚関係にもある事業家石井公一郎は、いかにも憚(はばか)りなくこう書いている。
「朝吹は(幕末に)郷里にいた若いころから米や豆の相場に乗り出し、かなりの成功を収めたようだが、これが朝吹にとって実務家として基礎訓練になった。朝吹は三十歳のとき、三菱商会に勤めるようになり、営業を統轄するかたわら岩崎弥太郎の懐刀となって米穀取引所の乗取りを始め、商資仇を叩きのめす積極行動に出た。明治十年代の株式市場は室町幕府の末期に似て戦争好きの豪傑どもの跳梁する乱世であった。(中略)実業人朝吹にとっては、この時代がもっとも楽しく生き甲斐に満ちたものではなかったかと想像される。」

幕末に類いまれな知性や胆力、あるいは人間的魅力をもって生まれ育った人間が、血縁や閨閥や時の運に恵まれれば、こんなことができた—。
朝吹英二の生涯を俯瞰すれば、そんな感慨が湧いてくる。こういう人物にとって、近代国家としての日本が最初の植民地として手に入れた北海道は、どれほど魅力的で可能性のある「無主の地」に見えたことだろう。
しかし言うまでもなく、この島にはすでに太古からの、先住の人々の多様な営みがあった。万字炭鉱という名前からは、明治国家の中枢が北海道に一方的に向けた、そんなまなざしの構造が見えてくる。そしてさらにそこに、清信朝男をはじめとして死に物狂いで大地と格闘した北海道人の内発的なまなざしや営みを掛け合わせるとき、北海道の炭鉱史はより深く複雑な表情を見せ始めるのではないだろうか。

グランマ・ヨシエの「万字炭山」をほおばる人の前には、地域史へのそんな入口が見えるかもしれない。

公園化された現在のズリ山の頂上。ここに至る長大な階段が名物

かつて万字線が分岐していた志文駅の現在の姿。一日上下各7本、一両編成のディーゼルカーが発着するだけの静かな駅だ。恵庭岳を遠望して水田が広がる

参考文献

  • 「ほっかいどうお菓子グラフィティ/塚田敏信」(亜璃西社)
  • 「栗沢町史」(栗沢町)
  • 「石炭の語る日本の近代/矢野牧夫・丹治輝一・桑原真人」(そしえて)
  • 「炭鉱・盛衰の記憶」(北海道新聞社)
  • 「鉄路とともに・国鉄万字線史」(岩見沢市)
  • 「そらち炭鉱遺産散歩/北海道新聞空知「炭鉱」取材班」(共同文化社)
  • NPO法人炭鉱の記憶推進事業団webサイト
  • 「朝吹英二君伝/朝吹英二氏伝編纂会」
  • 「PHOTO DOCUMENT 万字炭山 1966-1989」(清信朝男)
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