サイドストーリー「グランマから始まる志文の物語」-3

辻村直四郎と若林功

かつての空知農業学校、現在の北海道岩見沢農業高校のポプラ並木。大きな空の下にポプラ並木のつづく風景は、岩見沢らしさのひとつだ

グランマ・ヨシエの辻村淑恵さんの義理の祖父にあたる辻村直四郎は、岩見沢志文の開拓者として知られている。直四郎が残した文章や写真は、地域史をめぐるたくさんの新たな入口を指し示していて興味は尽きない。志文の物語の3回目は、一冊の農業開拓史からはじめよう。
谷口雅春-text&photo
古写真提供-辻村淑恵

若林功「北海道農業開拓秘録」から

若林功(1873-1958)という、北海道農業の先達がいる。明治初頭に大分に生まれ札幌農学校で学び、空知農業学校(現・北海道岩見沢農業高等学校)第2代校長や雨竜の蜂須賀農場支配人、北海道農会(現在のJAグループ北海道の源流のひとつ)の幹事などを歴任して、北海道の大地の現場に長く関わった人物だ。
若林は1940(昭和15)年に、「北海道農業開拓秘録」を刊行している。これは明治の開拓第一世代の肉声が聞こえてくるような、興味深い読み物だ(その後3篇まで出版。1964年に改訂版が再編集されて復刻)。
戊辰戦争の結果領地を失って伊達と当別に入った伊達家の当主たちを支えたリーダー田村顕允(あきまさ・亘理伊達家)や吾妻謙(岩出山伊達家)にはじまり、徳島藩の「稲田騒動」を機に日高の静内に入った州本城代家老稲田邦植、山梨県中巨摩郡から北村(現・岩見沢市)の開祖となった北村雄治とその兄弟、十勝開拓の礎となった晩成社の依田勉三など、代表的な移民団の渡道の顛末や入植のあらましが、指導者を軸にわかりやすく概説されている。

若林功。1873(明治6)年大分県生まれ。札幌農学校卒業後秋田と山形の農業学校の教壇に立ち、1908(明治41)年から10年あまり空知農業学校の校長を務める(写真は「北海道農業開拓秘録」より)

若林が、ここにまとめるに至った膨大な資料を集めながら関係の古老や当事者に会い、記事として農会の会報などで発表していったのは、大正期後半から昭和10年代前半。北海道農会の幹部として全道をまわる中で取り組んだ、自らに課した仕事だった。幕末に生まれて、一族の苦難の境遇に追いやられるように北海道に渡った世代もまだ現役の時代だから、資料や談話にはさぞリアリティがあったことだろう。
若林は同書の自序(前書き)で、「父の業は子には判つても、孫には最早模糊(もはやもこ)として實感がなく、従つて祖父の苦難の事蹟も、不撓不屈の開拓精神も知ら」ないと嘆く。そして、「かうした靑年に、翻つて父祖の業蹟と心事とを深く反省させたい。要は歴史を生かしたいのである」、と書いている。
またほぼ同時期(1941年)、若林は「北海道燕麦生産代表者聯合会沿革史」を編纂している。燕麦は、軍馬の飼料として陸軍に納める、戦前の開拓地の重要な生産物だった。

髙倉新一郎(農業経済学・歴史学1902-90)もまた、1946(昭和21)年の著作「随筆北海道」でこう述べている。
「北海道の農家には生産はあっても生活がなかった。落ち着いた社会生活のないところに、どうして美しい伝説が、歴史が生まれよう。実際開村してから既に3代目になろうとしている村さえ、真に草分けから続く家は少なくて多くの家が新しく変わって入った家である。北海道の農村は未だに村としての年が若いのだとも言えよう。」
明治20年代に北海道の内陸開拓が本格的に始まって、そのころでまだようやく半世紀ほど。若林や高倉、そしてこの時代の少なくない人々は、明治期に新たな歴史を刻み始めたこの島をめぐって、自分たちの手で自らの歴史を正確に綴っていかなければならない、という思いを強く抱いていた。

辻村直四郎が入植後すぐ、1892(明治25)年に自分で建てた開墾小屋。1894(明治27)年に撮影したと思われる写真のプリント

志文の開祖 辻村直四郎

若林の「北海道農業開拓秘録」には、岩見沢志文の辻村直四郎(1870-1941)も登場する。
表題は、「志文の開祖 辻村直四郎」。直四郎は、グランマ・ヨシエの辻村淑恵さんの義理の祖父にあたる、志文への最初期の入植者だ。この秘録にまとめられる前、直四郎の実績が最初に北海道農会報(448・449号)で紹介されたのは、1938(昭和13)年。辻村家資料研究会の村田文江さん(北海道教育大学岩見沢校元教授・社会科教育)や黒井茂さん(北方史料研究会)が調査したその会報を見ると、記事がそのまま本になっていることがわかる。
内容のアウトラインをスケッチするとこうだ。
辻村直四郎は1870(明治3)年、神奈川県足柄上郡吉田島村(二宮尊徳の生地の隣村、現・開成町)に自作農の四男に生まれた。学問への意欲はあったが、家の暮らしが中学進学を許さない。しかし20歳のときに親戚の援助を得て東京農林学校(のちの東京大学農学部)予科(記事では予備校)で学ぶことができた。この時代に北海道開拓への思いを募らせる。

馬にまたがる辻村直四郎。背景の家は1896(明治29)年に完成した2番目の家

縁者の援助を受けて1891(明治24)年に来道。道庁に日参して、土地の貸し下げを求めた。しかし有力なコネもない22歳の青年を、役人たちは冷たくあしらう。反面、力のある人物には規制を度外視したような手厚い便宜が図られていた。官吏の不義不正に、直四郎の怒りと焦りは募るばかりだったが、ほどなくして、懇意にしていたやり手の事業家(亀谷卯之助)から、馬追原野(現・長沼町)の未開地の開墾を任せられる。来るべき開拓者生活の演習にもぴったりではないか。こうして数人の農夫を引き連れて直四郎の北海道開拓がはじまった。さらに翌年にはこの事業家から、幌向(ほろむい)川河畔の貸し下げ地にある土地を紹介される。道庁の役人が職権を流用して取っておいたものだった(この人物松田学はのちに経済人となり、明治末には札幌商工会議所副会頭になっている)。役人の不正に憤激をいだきながらも、「他に策がないので兜を脱いで盗泉の水を飲む事に決心した」(「北海道農業開拓秘録」)。
この土地が、志文の、いまは一角にグランマ・ヨシエのある一帯だった。そこから開墾のようすや、大自然と格闘を重ねる原野での暮らしぶりが綴られていく。行政が編纂する地域史とはちがう、厳しくも心豊かな開墾の歩みがきわめて具体的に展開していくので、最後まで「本を措(お)く能(あた)わず」、の世界だ。

「農業開拓秘録」で若林は、辻村の項の本文の大部分は直四郎の手記を使わせてもらった、と書いている。辻村家資料研究会の村田文江さんはこのテキストも深く読み込んで研究しているが、若林と直四郎の接点は、このほかにも直四郎が大量に残した手記から伺えるという。
その前にまず、若林功がどんな人物であったかをもう少し説明しておこう。

忙しい仕事の合間。農場のほとりを流れる幌向(ほろむい)川で泳ぐ辻村直四郎。岸にいるのは妻の梅路と娘の元子。1909(明治42)年の撮影と思われるので、ちょうど若林功が空知農業学校に赴任したころ

若林功と空知農業学校

若林功は1899(明治32)年に札幌農学校を卒業して、秋田県農学校教員、山形の庄内農業学校校長を経て、空知農業学校(空農)第2代校長として岩見沢に赴任した。開校2年目である1908(明治41)年12月のこと。年俸1200円(現在の価値で言えば1千万円を優に超えるだろう)、敬虔なクリスチャンで36歳の若さだった。立ち上げを担った初代校長の松沢辰三郎は、札幌農学校で若林の6年先輩にあたり、前職は宮城県立農業学校校長だった。「岩見沢教育史」(岩見沢教育委員会)では2代目の若林を、「学者肌の校長であった」、と書いている。
若林が就任当時のことを回想したコメントが「開校五十年史」(1959)に載っている。曰く、前任地の庄内の生徒はおとなしかったが、岩見沢の生徒はハイカラで自由主義の思想に傾倒して政治国家を論じていた。旭川の(第七師団での)兵役を済ませてそのまま入学した者もいたので、30歳を超えた者もいて、活気はあったが統一の取れていない状態だった。

空知農業学校創立5周年創立祝賀会。奥に校訓「至誠」の文字が見える。この中に若林と辻村直四郎もいた(「開校五十年史」より)

「空農ばなし」(第12代校長福井敏夫)や「空農岩農ものがたり」(合田一道・1952年岩見沢農業高校卒業)によれば、空知農業学校開校前後のいきさつが興味深い。
北海道開拓のためのリーダー層を輩出した札幌農学校(1876・明治9年開校)には、基幹である農学科のほかに、農業伝習科があった。道内の農家の子弟に実践的な基礎教育を授ける場であり、こちらからも多くの現場リーダーが育っていた。辻村直四郎の実弟でのちに沼田町(空知管内)高穂の草分けとなった辻村高蔵や、ニセコの有島農場の管理人吉川銀之丞などもここで学んでいる。
しかし札幌農学校が1907(明治40)年春に東北帝国大学農科大学に昇格する際、伝習科は農業実科となった。この科は帝国大学として高等専門教育を提供する科に近いもので、つまりそのことは、農業現場ですぐ働ける農家子弟を育成する機関が失われることを意味していた。そこで道庁は、札幌農学校の農業伝習科を引き継ぐかたちで中等教育機関を岩見沢に据える。岩見沢に決まるまでには、同様に道都にほど近い滝川との激しい誘致合戦があった。
空知という広域の地域名を名乗ったのは、全道から広く学生を求めて、卒業生をその地へ送り返す規模をめざしたからだったという。事実一期生の出身地は、空知と石狩のほか、十勝や日高、胆振、根室、網走、宗谷など幅広い。

北海道庁立空知農業学校は1907(明治40)年春に開校した。定員は農科40名、獣医科40名。現在の北海道岩見沢農業高校だ(東北帝国大学農科大学はのち1918年に北海道帝国大学となる)。
学びに集った生徒たちの家庭の多くは開拓に成功して地域の中堅となっていて、後継者を育てるのに熱心であったし、生徒たちも卒業後はすぐれた農業家になろうという意欲に燃えていた。

1期生2期生と教職員の集合写真(「開校五十年史」より)

空知農業学校ストライキ事件

「創立七十周年史」(1977)やそれらをもとにした「空農岩農ものがたり」は、この若き校長が陥った窮地に詳しくふれている。
1909(明治42)年5月1日。農科3年16名、獣医科3年20人による同盟休校、つまり生徒たちのストライキが起こったのだ。若林の厳格な教育方針に対する反発だった。初代松沢校長は自由主義を謳歌する校風を育もうとしていたので生徒たちは、文弱に流れることを嫌う若林が強圧的に学校を改造しようとしている、と受け止めたのだった。
若林は制服のポケットに手を入れて歩くことを禁じ、頭髪を刈ることを命じたので、生徒たちの不満は溜まった。さらに生徒たちは学びの内容にも不満を募らせていた。農科3年が出した要求書には、「珠算を廃して農具の授業を1年生から初めてほしい」、「廃止された細菌学の授業を復活してほしい」、「年長生徒を廃する姿勢を改めてほしい」、「教員の学歴のレベルをあげてほしい」、「現在使っている測量学、土壌、農芸、無機化学などの教科書はレベルが低すぎる」などとあり、ついには校風の沈滞が著しく、校長の指導監督が不十分だと、校長不信任のアピールにまで踏み込んでいる。年史にある限りではどれも教育環境のレベルアップを求める、まっとうで誠実な要求と言えるのではないだろうか。
若林は生徒たちの鋭い指摘にうろたえながらも、すべては校長の不徳のいたすところであり、君たちととことん話し合いたい、と伝える。5月18日には全員が学校に戻り、話し合いがもたれた。
合田は「空農岩農ものがたり」で、「空農の前途を案じる生徒たちの心情が吐露された」、と書く。生徒のリーダーたちには処分が下され(特待生の解除など)、若林自身も道庁長官(薩摩出身の河島醇)に進退伺いを出したが、不問となった。事実若林は、大正半ばに雨竜の蜂須賀農場支配人となるために岩見沢を離れるまで、約10年にわたって空農を率いたのだった。

創立百周年(2007)を記念してキャンパスに据えられた、岩見沢農業高校校歌歌碑。この校歌は、第2代校長若林功が、母校札幌農学校の先輩である梁田貞に作曲を依頼したもの

直四郎手記に登場する若林功校長

ストライキは一度では終わらなかった。
「創立七十周年史」は、1914(大正3)年10月、運動会をめぐって再び生徒のストライキがあったことを記している。生徒たちが作った弥次(やじ)り台(応援のためにのぼり旗をつける高いやぐら)を教頭が許さずに壊してしまったことや、まんじゅうを配布する際のやりとりに対する生徒たちの怒りがあったという。この出来事は直四郎の手記にもあり、学校に若林校長を訪ねて慰問したことが残されている。
そしてさらに、ストライキは二度でも終わらなかった。
「苦悩と抵抗」と題されたこの年史の第五節は、空農には4度にわたる同盟休校があった、と書いている。明治末から昭和初期の旧制中学などでは、全国でも生徒による集団抗議が珍しくはなかったという。岩見沢ではたくさんの農作業や、多様な出自をもった若者たちが強いられる、統制が厳しい寄宿舎暮らしのストレスが、ときに強い摩擦を生んでしまったのだろうか。
しかし「70年史」でストライキの内容が具体的に記されているのは、いまふれた1909(明治42)年5月と、1914(大正3)年10月の出来事だけだ。

ここでまた辻村直四郎の手記が注目される。
辻村家資料研究会の村田文江さんによれば、実は彼の残した文章から、3回目のストライキがあったことがわかる。翌1915(大正4)年11月の手記には、空知農業学校に行って若林校長に会い、二年級生一同が起こした休校事件について相談した、とあるのだ。 そしてそのことで札幌の亀谷氏に電話を入れた云々、とつづく。
亀谷というのは亀谷馬具商店の亀谷卯之助のことで、直四郎が来道して以来深い交友のある人物だ。彼が最初に馬追原野に入り、つづいて幌向原野で念願の開墾に着手できたのも、亀谷のおかげだった。「北海道農業開拓秘録」では「豫(かね)て懇意にしてた亀谷卯之助さん」、と出てくる。亀谷の孫(賛)が空知農業学校の生徒だったので、孫とストライキとの直接の関わりは窺(うかが)われないものの、一報を入れて相談したのかもしれない。
その数日後に直四郎は、事を起こした生徒たちを農会に集めて、自ら諭(さと)し、彼らに学校に戻ることを納得させた、と書いている。この11月のストライキは、生徒たちのあいだで前年の運動会での出来事を引きずる何かがあったことを想像させなくもない。

繰り返すが、運動会をめぐる軋轢とストライキの翌年(1915年)にもまた、生徒は3回目のストライキを起こしていた。そして直四郎は若林校長と生徒たちのあいだに入ってことを収めようと奮闘していた。直四郎は若林の3歳上だから、同世代だ。そして明治30年代の数年間は岩見沢農会の会長を務めていて、岩見沢の小学校を定期的にまわって農事講話を行っている。こうした行事には農学校の教師たちも講師を務めているし、農学校の生徒が辻村農場で実習を行うこともあった。農会会長である直四郎と農学校には幅広く深い関わりがあったわけだ。
先にふれたように、若林はのちの戦争中に「北海道燕麦生産代表者聯合会沿革史」を編纂しているが、直四郎は明治末の創立以来、この連合会の空知管内の代表委員を長く務めていた。
立場は違うものの、そして明確な資料はまだ見つかっていないものの、明治40年代から大正半ばまで岩見沢に暮らした若林と、地域のリーダーである直四郎とのあいだには当然、単なる職務を超えた交友があったのではないか。村田さんはそう考えている。若林功という人物についても、まだまだ調べたい深い鉱脈が眠っている。

年史で4回あったとされる同盟休校だが、4回目のあらましは公の史料には見えていない。

札幌の亀谷馬具商店の亀谷卯之助。右は渡道から間もない若い辻村直四郎だろうか

3つの時代に3つの意味をもった歴史書

若林の「北海道農業開拓秘録」は、書誌研究の側面からも興味深い。
まず1940(昭和15)年に「北海道農業開拓秘録」(八紘学院)が出版され、翌年にはすぐその第2版が、農会報で連載していた「創業の人々を語る」という企画と合わせて出された。改訂増刷された新装版だ。
そして戦時中の1942(昭和17)年には、「北海道農業開拓秘録」の続篇となる「北海道農業開拓秘録」第2篇が出版されている(水産社「八紘叢書」)。こちらは内容が重ならない第二卷というべきもので、「第2篇」と名づけられた。
最後は戦後の1949(昭和24)年。第2篇に続く第3篇が編まれ、同時に最初の本(1940年刊)も再刊されたので、全3篇として評価を受けることになる。タイトルも、「農業」が抜けて「北海道開拓秘録」となった。版元は、八紘学院が戦後に改称した月寒学院だ。

最初の出版が高評価を受けたのですぐ翌年(1946)に出された第2版の前書きで若林は、初版が好評で、とりわけ満洲方面に多数の読者を得たので新装版とした、と書く。ここでは北海道の開拓が、日本の大陸進出が直面した満洲開拓とぴったり重ねられている。この版では岩見沢出身(親は鳥取県からの旧士族移民)の小説家・評論家中村武羅夫(むらお)も一文を寄せていて、そこには、「今や滿洲國の移民と開拓とが、日本の國策として愈々(いよいよ)盛んであると共に、恰(あたか)も北海道の移民開拓時代が人々の深い関心を惹いて、やうやく當時の實情が再吟味を受けつゝある時である」、という主張が躍る。戦時下で中村が、文学界の戦時動員組織である「日本文学報国会」の中心メンバーとなるのはそれからまもなくだ。

続編となる「北海道農業開拓秘録第2篇」(1942)では戦時ならではのベクトルがさらに高まっていく。なにしろ題字は先の総理大臣阿部信行(陸軍大将)によるもので、南満州鉄道総裁の大村卓一が序文を寄せている。もうひとりの序文の寄稿は、北海道帝国大学農学部長を退官して八紘学院院長を務めていた星野勇三。星野は、「大東亜戦争の完遂、八紘為宇の大理想達成の為め、北に南に開拓的精神の發揚を要する事最も切なるの時」にこの本を世に送ることは「洵(まこと)に欣喜に堪へぬ次第である」、と力説している。

そして戦後に全3冊となったとき、そこでは当然、戦時の言説は完全に消えている。
若林は自序で、この出版は月寒学院の栗林元二郎氏(旧八紘学院創設者)の尽力のたまものである、と謝意を述べる。
曰く、自身も芽室(十勝管内)の開拓者であった栗林氏には、常人とは異なる理念と情熱がある。現在は敗戦後の食糧難の時代であり、空襲で大都市を焼き出された、農業未経験の一般人が北海道の戦後開拓に入る例も少なくない。栗林氏は、いまこそ明治の開拓者たちの「黙々敢行の魂に俟(ま)つべき(黙って困難に立ち向かう実践精神を受け継ぐしかない)」と確信すればこそ、この出版に尽力したのである、と。

若林功の「北海道農業開拓秘録」(戦後版は「北海道開拓秘録」)は、3つの時代の文脈でそれぞれに位置づけられるだろう。
つまり最初は、開拓一世の思いや仕事が社会から希薄になりそうになった時代に求められた、記憶装置として。次に、日本が大陸進出に盲進する際の精神のエンジンに。そして三つめは、敗戦で疲弊した国土と人々の精神をいまいちど勇気づける活力源としてだ。

全4冊からなる「北海道開拓秘録」改訂版(1964-65)

ちなみに若林没後の1964(昭和39)年から翌年にかけて、「北海道開拓秘録」は3篇ではなく全4篇からなる、評論家加納一郎が改訂した版として復刻された(時事通信社)。

辻村直四郎の手記などからも垣間見える若林の岩見沢時代(1908-1919)は、学校経営に苦労する農学校校長として、生地九州から東北へと北上してきた内地の人であった彼の北海道観を、深く鍛えたことだろう。
そして直四郎の次男(長男は夭逝)でグランマ・ヨシエの辻村淑恵さんの義父である辻村太郎(1909-84)もまた、戦前戦中には辻村農場経営のかたわら、空知農業学校の教壇に立ち、そこから出征している。
地域史の交差は、思いがけない気づきと学びの入口を見せてくれる。若林功の「北海道農業開拓秘録(北海道開拓秘録)」には、2026年のいま、はたしてどんな位置づけがふさわしいだろうか。

現在の北海道岩見沢農業高校。広大な敷地に多様な圃場や施設群が配置されて、7学科におよそ800人の若者が学ぶ

この記事をシェアする
感想をメールする