ススキノで100年続いた駄菓子屋さん「藤川菓子店」

どれにする? 色とりどりのパッケージに、懐かしい思い出がよみがえる

この冬、札幌最古とされる駄菓子屋さんが店をたたんだ。大正時代から「すすきの市場」にあった「藤川菓子店」。変化の激しい歓楽街・ススキノのど真ん中で100年以上、昔ながらの量り売りで客を楽しませた店主たちの心意気を伝えたい。
新目七恵-text 黒瀬ミチオ-photo

驚きのノスタルジックスポット

あれは10年以上前のこと。古びたアパートの地下にある飲食店街「薄野ゼロ番地」で飲んだ帰り、同じビルの地上階にある「すすきの市場」をふらふら歩いたら、突然、電灯にぽっかり照らされた駄菓子屋さんが現れた。

「すすきの市場」西側にあった「藤川菓子店」。隣は青果店で、向かいは鮮魚店だった

「何、ここ!?」
まるで昭和にタイムスリップしたかのような佇まいに驚いた私は、小石の形をした風変りなチョコを買い求めることに。すると、今や珍しい量り売りで袋に詰めてくれるではないか。酔った頭に強烈な印象を与えてくれた、それが、「藤川菓子店」との出合いだった。
その後も何度か立ち寄り、子どもの喜ぶガムやチョコに加え、レトロなショーケースの中から、かりん糖やせんべいなどを気分で選んでは、家族で素朴な味わいを楽しんだもの。
今回、「藤川菓子店」の取材担当に手を挙げたのは、そんな個人的な親しみもあったからだったが、連絡を取ろうと思った矢先、2026年1月末で閉店するというニュースが流れた。だから“現存する”札幌最古の駄菓子屋さんではなく、過去形で語らなければならないことが残念でならない。それでも、快く取材を受け入れてくださった最後の店主・久家亮一(くが・りょういち)さん(66)の言葉と共に、ススキノの住民たちに親しまれた店の歴史をひも解きたい。

 

3代目店主は元取引先

「藤川菓子店」と聞くと、ベレー帽に白い作業着を羽織り、優しい笑顔で迎えるおじいちゃん店主を思い浮かべる方もいるのではないか。
「昔の人なのかな。月に一度は床屋に通って、身ぎれいにしてました」と亮一さんが語るその人は、3代目店主・久家亮壽(すけとし)さん(享年96)。亮一さんにとっては、実の父親であり、20年以上、二人三脚で店を切り盛りしたパートナー的存在だ。

「藤川菓子店」3代目店主の久家亮壽さん 写真提供:戸﨑浩基(岡酒店)

久家さん親子が「藤川菓子店」を継いだのは2000年代初めのこと。本業は珍味類の卸業者で、「藤川菓子店」は取引先の一つだったという。
「先代店主の藤川朗さんから『もう歳だから、そろそろ店を閉める』と聞いたおやじが、引き継ぐことを決めたんです。おつまみの珍味や菓子などをうちが納品していて、近しい存在だったから話があったのでしょう。親子で真剣に話し合ったわけではないですが、うちの本業の雲行きも怪しく、藤川菓子店の売り上げが半分以上を占めていたので、『とりあえず、やってみましょうか』と私も同意して。商売の延長線上という感じでしたね」と、亮一さんは振り返る。

父・亮壽さんと共に「藤川菓子店」を継いだ亮一さん

引き継いだ当初は、毎月お餅を注文する固定客がいて、近所の一般住民やスナック、旅館などへの配達も10軒以上あったそう。亮壽さんと交代で店に立ち、午前11時~夜8時の営業を続けた亮一さんは、「上のアパートは高齢の方が多かったので、菓子パンと牛乳なんかを配達すると『助かるわ』と感謝してもらったこともありました」と懐かしむ。
「すすきの市場」の名物店が続いたことにホッとした人も多かっただろう。何しろここは、飲食店街・ススキノの“原点”ともいえる長い歴史を持つ場所なのだ。

レトロな佇まいが歓楽街で異彩を放つ「すすきの市場」

「すすきの市場」の最古参

「すすきの市場」の前身は、1922(大正11)年6月に設置された「薄野小売市場」。ここは第一次世界大戦後、急激な物価高対策として札幌で2番目に作られた公設マーケット。当初は平屋木造建てのバラックのような棟が4棟建てられ、各棟に8店が入居。1店当たり4坪ほどの広さで、おでん屋や焼鳥屋、寿司屋、ラーメン屋、なかでもパン屋を兼業した飲食店「佐伯ホール」が人気を集めたという。「藤川菓子店」も草創期から入居したと伝わっているが、関連資料に記載は見つけられなかった。とはいえ、1922年4月1日付けの新聞「北海タイムス」の広告欄に「藤川菓子店」があったから、その頃から札幌にあったのは間違いない。

その後、地下1階・地上5階という現在の建物に建て替えられたのは、第二次世界大戦後の1958(昭和33)年。札幌市の第3セクター・札幌振興公社が当時の特殊法人・日本住宅公団と新築した道内初の“ゲタばきアパート”(※下層階に店舗などのテナント、上層階に住戸を組み合わせたアパートのこと)で、まだ平屋建ての家屋が多かった頃、2~5階の公団アパートは最先端の住まいといえた。1階フロアの「すすきの市場」は、公設時代に続いて“まちの台所”の役割を果たし、約30店舗が営業。「藤川菓子店」も小銭を握りしめた子どもたちで活気にあふれたことだろう。

にぎわう1960年代初頭の「すすきの市場」(札幌市公文書館所蔵)

ちなみに、アパート開業当初、地下1階には雑貨店や歯科医院などが入っていたそうだが、なかなか入居者が定まらず、昭和40年代に飲食店街「薄野ゼロ番地」として模様替え。仕掛け人は、後に“ススキノの風雲児”と呼ばれる久末鐵男で、この「ゼロ番地」成功の後、久末は近隣に一大歓楽ビルを出現させ、夜の飲食店街・ススキノのイメージを作る第一人者となる。

そして、1972(昭和47)年の冬季オリンピックを機にススキノ周辺は一変する。「すすきの市場」の客層も変化し、1996(平成8)年1月24日付けの北海道新聞に登場した「藤川菓子店」2代目店主・藤川朗さんの妻・美代子さんによると、お得意さんはスナックのママで、美代子さんが注文より多く袋に詰め込むと「不況で落ち込み気味のママさんたちの表情が、子供のように明るくなった」と紹介されている。

その後も「すすきの市場」の古株として「藤川菓子店」は新聞や雑誌でたびたび取り上げられる。とはいえ、幼い頃から父・亮壽さんの納品について歩き、「すすきの市場」の誕生まもない頃から知る亮一さんは「市場には本当に色々な店があったので、藤川菓子店が特別という意識はなかったですね」と率直な思いを語る。

 

親子で「やめる」選択肢はなく

今や希少な「青ねじり」。甘く味付けしたきなこを棒状に伸ばした駄菓子で、「藤川菓子店」の定番商品の一つだった

芋ケンピや昆布あられ、ビスケット…。対面販売で量り売りする駄菓子は「藤川菓子店」の“顔”だったが、亮一さんによると、仕入れはひと苦労だったそう。というのも、製造業者が異なる上、問屋は年々減少。「全国各地の業者に直接問い合わせて在庫を探したり、時にはインターネットで取り寄せたりして、50~60種類を揃えていました」と説明する。
人気だった大福餅も、店を引き継ぐ際、それまでの製造業者が「(先代の)藤川さんが辞めるならうちも辞める」となってしまい、紹介してもらった札幌の別のお餅屋さんに切り換えたそう。

リピーターも多かった「大福」は、札幌・新琴似の「福屋」から仕入れていた

配達先も減り、商品確保に苦労する中、2020年からのコロナ禍で売り上げはさらに落ち込む。1990年代には全55戸が満杯だったという公団アパートも、耐震性能の問題から2024年までに全住民が退去することに。そうした状況でも、「店をやめるという選択肢は全く出てこなかった」と亮一さん。その理由は、亮壽さんのこんな思い出話から伺える。

「2018年9月の北海道胆振東部地震は、よく覚えています。停電になったので私は店を休むつもりだったんですが、おやじは『店に行く』と言い出したんです。とりあえず送り届けて、1時間ほどして様子を見に行ったら、真っ暗な中で一人、灰皿にろうそくを立ててポツンと店先に座ってました。『帰ろう』と声を掛けたら、コクンとうなずいて…」。

インタビューの冒頭、「商売の延長線上で店を継いだ」と話した亮一さんだったが、駄菓子屋がそれほど儲かる商売ではないのは自明だろう。「『社会奉仕』だと、おやじは言ってましたね。本当にその通りで、金儲けを考えたらやめたほうがいい(笑)。うちは消費税も客から取らなかった。もう少し儲けりゃいいのになと私は思っていたけれど、文句を言いませんでした」と明かしていた。

店先で作業する久家亮壽さん 写真提供:戸﨑浩基(岡酒店)

駄菓子屋業に精魂を傾けた父を、ずっと支えた亮一さんだからこそ、2025年11月、亮壽さんが急逝すると、その2カ月後に閉店するという決断に至ったのだと理解できる。
「たぶん、おやじが生きていたら、まだ店を続けているはず。お客さんにも申し訳ないと思ってます」と言葉少なに語る亮一さんの表情が和らいだのは、こんなこぼれ話を私が伝えた時だった。

実は閉店前の「藤川菓子店」で、大袋のゼリービーンズを3つ、まとめ買いする渋い中年男性がいた。気になって外で声を掛けたら、「最後だから買い占めたんだ(笑)。昔から知っているなじみの店だし、俺はここでしか買わないから!」とのこと。すぐ近くでバーを営むマスターだというので、お邪魔させてもらったら、ガラス瓶に入ったゼリービーンズが、営業前のカウンターでカラフルに輝いていた。
「藤川菓子店」から徒歩数分のビル4階にある「MUSIC BAR 文昌堂」の店主・多田勝利さん(63)は、この界隈で生まれ育った生粋の“ススキノっ子”。子どもの頃、友達の親が経営するスナックに遊びに行った時、初めてゼリービーンズを目にしたそう。「見た目がきれいだし、気持ちも明るくなる」。自分が店を持ったらぜひ置きたいと、なじみの「藤川菓子店」で買い続けてきたという。

すると亮一さんは一言、「そうだったんだ…」と漏らした。考えてみれば、客に手渡した駄菓子の行き先を、店主は知らない。でも、毎日手売りした駄菓子の一つ一つに、そうしたエピソードがあり、ストーリーがあったはず。そう、たとえば、学校から帰って疲れ顔の子どもたちが、小さなガム1個でぱっと笑顔になり、気分が明るくなった我が家のように。駄菓子屋さんの存在意義を、この時少しでも伝えられて良かったと思う。

 

駄菓子屋店主が託したもの

ちなみに、ゼリービーンズの多田さんは、久家さん親子に店を託した藤川さんご夫婦のことも覚えていた。
「60年くらい前の話だから俺は子どもだけど、ドーナツとかを買って食べてました。藤川のお母さんは小柄な人で、すごく優しかったね。おやじさんは職人っぽい印象。2人とも白衣を着ていたなぁ」。
白衣!? そこで資料を見直すと、確かに藤川さんご夫婦は白い作業着で働く写真が。「藤川菓子店」を継いだ亮壽さんは、店構えと共に、トレードマークの店主スタイルも受け継いだのだろう。

最後に、先代・藤川朗さんのコメントを紹介したい。ラジオのまち歩き番組の内容をまとめた『さっぽろ散歩』(1988年、札幌市発行)、1988年2月13日放送分の回に登場した朗さん(当時69)は、こんなことを話していた。

「開店当時は市場の前に“新川”が流れていて、市場もそれに沿うように建っていました。(中略)建物も当時としては実に立派でね。今じゃすっかりくたびれましたが、私たちの商売は、建物の見栄えじゃなく、いかにお客様に喜んでもらえるかが勝負ですから。(中略)この市場には何ともいえない味があるね。お客さんも気さくで、おおらかだから、商いもしやすいし。ここは自分の“死に場所”だね」

亡くなる前日まで店にいたという3代目・久家亮壽さんの姿と、2代目・藤川朗さんの言葉が重なる。

お菓子を量って袋に詰めて、時にはちょっとおまけして。そんなささやかな営みで、大正、昭和、平成、令和の時代に生きる人々を元気づけてくれた駄菓子屋さんがススキノに存在したことを、私はきっと忘れない。

参考文献

  • 『物語・薄野百年史』(脇哲 編・著、すすきのタイムス社発行、昭和45年)
  • 『さっぽろ散歩18』(札幌市、昭和63年)
  • 『さっぽろ文庫87・すすきの』(札幌市教育委員会、平成10年)
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