
夏の「狸まつり」でにぎわう札幌狸小路商店街。5丁目ではマスコットキャラクター「だっこポン」の巨大なバルーンがお出迎え(2026.07.31)

夏の「狸まつり」でにぎわう札幌狸小路商店街。5丁目ではマスコットキャラクター「だっこポン」の巨大なバルーンがお出迎え(2026.07.31)
狸小路1丁目には、ふたつの不思議がある。
ひとつ目は、真ん中を南北の中通りが貫いていることだ。
創成川以西の都心部で、こうした南北の中通りはない。どうしてこうなっているのだろう。
話は明治初頭のまちづくりにさかのぼる。札幌最初期の地誌である「札幌沿革史」(1897年)によれば開拓使はまず1871(明治4)年、原野を60間(約110m)四方に区画して、主要な道幅を11間(約20m)、裏道を6間(約11m)に設定した。人工都市札幌のまちづくりがそこから立ち上がるのだが、翌1872(明治5)年には中心市街地の通りが、北海道の国郡をなぞって名づけられていった。
どういうことかといえば、現在の「○条○丁目」とちがって、大通を後志(しりべし)通、南1条を渡島(おしま)通、西2丁目を胆振(いぶり)通、という具合になぜかよその土地の地名が振られたのだ。主導した開拓使大判官の岩村通俊(のちに北海道庁初代長官)は、札幌の人々に北海道各地の名を知らしめたいと考えたのだという。といってもこの時代の札幌の人口は、周辺の円山や苗穂、篠路、白石などの各村を含めてもわずか3,500人あまりだ。
このとき創成橋をはさんだ一帯については、国郡の名前ではなく、東創成町、西創成町と名づけられた。話は少し込み入るが、創成橋が架かっていたのは大友堀で、この時点(1872年)では創成川という名の川はない。幕末に箱館奉行所の命を受け、渡島での開墾指導を経て現在の東区に入った大友亀太郎が主導して、豊平川の枝流を活用して開削されたのが大友掘だ。小田原の人であった大友は、郷里の偉人である二宮尊徳に学んだ土木技術や精神(両者を合わせて報徳仕法)を実践して用水路を掘った。明治に入りその水路が、橋の名前を重ねて創成川と名づけられたのだった(1874年)。
さらに創成川といってもこの時代はまだ石狩川と合流する茨戸(ばらと)までは通じていなく、いまの石狩街道の札沼線の陸橋のあたりで、当時は北東に延びていた琴似川に繋がっていた。
狸小路のはじまりとされる1873(明治6)年は、岩村通俊が猛進した札幌のまちづくりの勢いに、一転して逆風が当たった年だ。予算が逼迫して、市街地整備の多くの計画は行き詰まる。それまで大工や左官や木挽にはじまり、人夫や馬車、材木商、さらには飲食店や宿屋などを幅広く動かしていた、裾野の広いたくさんの事業が止まってしまったのだった。
開拓使長官の黒田清隆は、突っ走る岩村に替えて、根室を担当していた松本十郎を起用して立て直しを図った。先述した「札幌沿革史」は、「明治六、七年市民大に逃走せし時代」と書いている。「中央」からの予算が細ればとたんに地域が立ち行かなくなるのは、現代まで共通した、北海道経済の本質だ。
開拓使札幌本庁では、綱紀粛正や官吏の減員などを進める一方、景気回復のためにインフラを整備する救済工事を実施した。
「北海道史」附録地図(1918年)にある「明治8年札幌市街図」を見ると、西創成町の中央を南北に貫く中通りがある。そしてこれから狸小路として商人が集まっていく爾志(にし)通(現・南2条)と檜山通(現・南3条)のあいだにある中小路は、創成川に抜けることなく、2丁目で突き当たっている。

「明治8年札幌市街図」(「北海道史」附録地図・1918年)では、創成川をはさんで東西に創成町があり、ともに南北に延びる中通りが見える(一部分を拡大、加筆)
また、胆振通(現・西2丁目通)の幅が13間半(約24.5m)とある。11間(約20m)が基本のほかの通りよりも、なぜ少し大きく作られているのか。それは、ここに豊平川の枝流である胆振川が流れていたからだ。
「新札幌市史」第二巻(1991年)には「明治11年の区画予定線」という、西へと拡張予定の町割図がある。区画の予定は山鼻屯田兵村や東本願寺に接するところまで伸びているが、胆振通と津軽通(現・南4条通)が交わる一角から胆振川がまっすぐ北上しているのが見て取れる。
狸小路1丁目の中心を南北の中小路が貫いていることと、西2丁目通の幅員が周辺の通りよりも大きいことには、こうして明治期の前半にさかのぼる要因があるのだった。

「新札幌市史」第二巻」にある「明治11年の区画予定線」(加筆)。現在の西2丁目通りを、豊平川から分かれた胆振川が北上している
札幌市公文書館で、「明治8年開拓使管轄石狩国第一大区札幌郡諸小区永住戸籍写」という史料に当たってみた。「新札幌市史」編集室による複製(写し)だが、札幌に、寄留ではなく定住することを決めた人々の名義が、区画ごとに記されている。1875(明治8)年という開拓の草創期。道都はまだ役人のまわりを移民や旅する商人が行き交うトランジットラウンジのようなところだったが、中心市街地では有力者たちがすでに自らの事業の布石をびっしりと置いていた。
ここでも現在の西1丁目と東1丁目の街区はそれぞれ西創成町と東創成町で、中心を南北に抜ける中通りを確認することができる。あいだを創成川が北流していることと、形ができはじめていた狸小路は胆振通(西2丁目通)までで、西創成町には延びていないことも見て取れるだろう。つまり、狸小路1丁目はまだ存在していない。

「明治8年開拓使管轄石狩国第一大区札幌郡諸小区永住戸籍写」の一部分に加筆(札幌市公文書館所蔵)
蛇足だが、この永住戸籍図には札幌史に登場するたくさんの人名が載っているので、寄り道したくなる。拡大しなければ見にくいが、3人にだけ赤線を引いてみた。
まず現在の大通西2丁目には武林盛一の名がある。開拓使の御用写真師で、のちに独立して武林写真館を創業。明治大正期の札幌に関わる古写真の多くは、この写真館の台紙に収まっている。ほどなく上京した武林は札幌での写業を弟子の三島常磐(ときわ)に譲ったが、三島は息子の磐雄(いわお)を武林の養嗣子とした。これがのちの作家武林無想庵。現在のこの地(丸井今井札幌大通館前)には、無想庵の生誕地碑がある。
東創成町には、吉田茂八の名が見える。幕末に箱館奉行所の石狩役所の命を受けて、豊平川左岸の渡し守になった人物だ。右岸の志村鉄一とともに、札幌に最初に定住した和人として語り継がれている。またその南隣にある木村万平は、開拓使御用達で巨額な事業群を動かした名高い海運業者だ。

1丁目で1912(明治45)年創業の齋藤印舗。当初は日用雑貨を扱い、2代目が印鑑の製造に切り替えたという
札幌の街区の名称が現在のように○条○丁目になったのは、開拓使が廃止される前年、1881(明治14)年のこと。狸小路が1丁目まで延びたのは、さらに時代を下って1919(大正8)年だった。そのころには胆振川は、下水工事(1887・明治20年)に伴ってすでに埋められている。
1丁目への延長の経緯を概説しよう。
街歩き専門家の和田哲さんによれば、狸小路1丁目ができる発端は、1891(明治24)年ころに1丁目の西端に店を開いた三国屋が、敷地内で東へ細い路地を開けたことだという(さっぽろれきぶんフェス2018)。路地は弁天小路と名づけられた。三国屋は、福岡県津屋崎から入った南部源蔵が和洋小物商店を起こして、のちに酒類・缶詰なども手広く扱った大店(おおだな)。小樽や旭川、夕張に支店を持ち、平岸では果樹園も経営した。また、ロサンゼルスオリンピック(1932年)陸上競技三段跳の金メダリスト、南部忠平(1904-1997)の実家でもあった。
さっぽろ文庫「札幌の地名」などによればこの時代、1丁目の南北の中通りは狐小路と呼ばれている。狐とは狸小路の狸に呼応するものだが、白首(首すじに白粉を濃く塗っている私娼)のこと。一帯は、市井の人々がしばしば化かされるように散財する舞台でもあったわけだ。
ちなみに先にふれた武林盛一が起こした武林写真館は、ちょうどこの三国屋の北隣だ。

1丁目の真ん中を南北に貫く中通り(かつての狐小路)。遠くに突き当たるのは北1条通りに面した札幌文化芸術交流センター
1892(明治25)年5月には、狸小路4丁目を火元にした大火事が起きて887戸が焼失した。
「新札幌市史」ではこれを「札幌における史上最大の災禍」、と記している。狸小路で商売をしていた白首もこれを期に姿を消したという。
柾(まさ)葺きの人家が密集して防火や消火のインンフラも未熟な新開地に、火災はつきものだった。そして大小毎年繰り返される火事の惨禍が、狸小路1丁目の成り立ちにも大きな影響を及ぼすことになる。
2丁目の東で丁字路となっていた狸小路だが、突き当たりには明治30年代に劇場(共楽館)が建ち、ここが火災で焼け落ちると跡地に共益商館という勧工場(ひとつの建物に複数の店が並ぶ施設)ができていた。しかし1907(明治40)年には、大火がまた中心街を襲う。共益商館の石油ランプが火元とされ、警察署や支庁などの官庁を含む370戸が焼失した。ほどなくして共益商館の跡地に、札幌商品陳列場という後継施設が建った。下の地図はこの時代のものだ。
弁天小路の方は、明治の末には路地の両側に店が並んで、南北の中小路までが狸小路になっていた。

1910(明治43)年の狸小路1丁目付近。三国屋のところから路地が延びて、突き当たりに札幌商品陳列場がある(札幌市公文書館収蔵の地図の一部分に加筆)
明治から大正へ。
札幌の市街地は順調に拡張され、中心街では馬車鉄道やガス灯が登場する。1916(大正5)年には丸井呉服店が本格的なデパートメントストアに転じて、開拓使設置から半世紀、開道50年を祝した1918(大正7)年には、北海道帝国大学が東北帝国大学農科大学から独立している。札幌の人口は9万4千人あまり。
だが1919(大正8)年。またも大火が一帯を襲った。狐小路や弁天小路も大きな被害を受ける。
さっぽろ文庫「狸小路」(和田由美さん担当の第4章)によれば、再建を図った札幌商品陳列場とその周辺では、狸小路のこの突き当たりは鬼門に当たるから道を開けようという声が高まった。こうして、創成川まですっきり抜ける、現在の1丁目の原型ができたのだった。

安田侃の彫刻のほとり。夏のイベントでにぎわう創成川公園から見る狸小路1丁目(2026.07.31)
冒頭で狸小路1丁目にはふたつの不思議がある、と書いた。ふたつめの不思議にふれよう。
それは、北側にL字街と呼ばれる少し奇妙な路地があることだ。

L字街への狸小路側からの入口。人気のフルーツサンドの店「Majisand」の前の行列はおなじみの風景

L字街への西2丁目通からの入口。一帯には親しみやすい低層のビルが集まり10数店の小さな飲食店が個性を競っている
L字街の由来を示すのには、一枚の写真があれば十分だろう。
L字の交点には、1985(昭和60)年まで寺院があった。天台宗新浅草寺。建物も東京の浅草観音堂に模して1933(昭和8)年12月に開かれた、通称浅草観音堂だ。
寺には狸小路側と西2丁目側、それぞれから入る参道があった。平面に碁盤の目の道路が交わるだけの単調な札幌都心にあって、少し独特のたたずまいを感じるのは、この2本の参道跡のせいだ。

1961年の空撮で観音堂を見る。狸小路側と西2丁目側の二方向に参道がある。これが現在のL字街のいわれ(国土地理院撮影の空中写真の一部分に加筆修正)

1933(昭和8)年暮れに1丁目に開かれた、天台宗新浅草寺(「札幌狸小路発展史・改訂版」より)
「札幌狸小路発展史・改訂版」(1955年)や「新札幌市史」などをもとに、そのいきさつをなぞってみよう。
浅草観音堂の本尊は、「柳之御影観音」(やなぎのみえいかんのん)。
1920年代に東京浅草の浅草寺の客僧をしていた佐藤智善が、開拓の守り本尊として奉遷(移)したいと、大正の末の札幌に携えてきたものだ。御影とは、紙に刷られた版画のことで、平安時代にさかのぼる言い伝えによれば、第三代天台座主(ざす)円仁(慈覚大師)が柳の板に彫ったものが版木になったという。佐藤はその版木から最初に刷られた三枚のうちの一枚を表装したと言われる掛け軸を譲り受けていた。札幌では紆余曲折があったものの、いきさつを知った狸小路1〜3丁目の人々は、この軸を本尊にして、周辺を浅草の仲見世のように繁盛する商店街にできないか、と考えた。寺を建てるのにふさわしい空き地も、ちょうどある。
空き地とは、先述した三国屋が去った跡のことで、繁栄を極めていた三国屋は、実は大正の末に事業が行き詰まり、没落。店舗も取り壊されていたのだった。こうして1933(昭和8)年に浅草観音堂が建立された。

1丁目に「柳之御影観音」が祀られたことを記念して1934(昭和9)年に作成された「狸小路商店案内双六(すごろく)」。サイコロを振って進むが、観音堂が上りになっていて、本尊の由来が説明されている(札幌市公文書館所蔵)
おりしもその少し前、各地で銀行の取り付け騒ぎが起きた金融恐慌(1927年)があり、さらにニューヨーク証券取引所に端を発した(1929年)世界恐慌を受けて日本経済も落ち込み、1930(昭和5)年くらいから札幌市中の景気も厳しく冷え込んでいた。狸小路には18件もの空き家が出る。そしてさらに追撃となったのは、東京の三越百貨店が札幌支店を開設すると発表されたことだった。狸小路の商店主たちは、強力な反対運動を組織する(三越札幌店は、南1条西3丁目に1932年5月に開店)。
そんな中で彼らは、東京浅草のように観音様をお参りした人々がたくさん買い物をしてくれれば、この不況も乗りきれるにちがいないと信じた。

西9丁目の札幌観音堂に祀られた、高村光雲作の観音像(「札幌狸小路発展史・改訂版」より)
しかし事態は思わぬ展開を見せる。
電車通り(札幌駅前通り)をはさんだ狸小路西側の商店主たちも、まったく同じことを考えていたのだ。そして1丁目に浅草観音堂が建立される少し前の1933(昭和8)年9月、当時はそこで行き止まりだった狸小路9丁目に、観音像を祀った札幌観音堂が建立されてしまった。こちらの仏像は彫刻界の第一人者である高村光雲が、北海道開拓に命を捧げた数知れぬ無縁仏のためにと、無報酬で白檀から彫り出したものだった。
1933(昭和8)年9月26日の北海タイムスには、「東・西!狸小路に觀音さまが對立」という大きな記事が載っていて(札幌市公文書館資料)、「札幌狸小路発展史・改訂版」でもその記事を丸ごと引用している。
曰く、「今回一・二・三丁目が聯合して九丁目観世音に対して別個の観世音を西一丁目にも奉祀することになつたので、ここに電車通りを境として狸小路は東西にかつきりと分裂、両観世音を擁立して華やかな商戦を展開することになつた。(中略)果してこの対立はどうなるか?朗かなトピックとして今札幌市内を賑はしている」
最後はいかにも野次馬の物言いだが、高村光雲が彫った観音像は、東京の浅草寺で開眼式を済ませて札幌にもたらされた。札幌駅に着くと、9丁目までの沿道には黒山の観衆が集ったという。
「札幌狸小路発展史・改訂版」では、両者の軋轢を複雑な背景やいきさつとともに、外連味(けれんみ)たっぷりに記している。
9丁目側は、同じ町内なのだからひとつにまとめようと呼びかけたが無駄だった、と言う。1丁目側は、観音様を守り本尊にすることはこちらが10数年前から計画したこと。9丁目の向こうを張って建てたなどと誤解されるのは迷惑千万である、と応えた。
「新札幌市史」には、「両観音は客足を呼ぶことになったようであり、この暮れから正月にかけての参拝客は一丁目の柳之御影観音が六万人、九丁目の浅草観音が三万人といわれ、商店の売上げも二割増しで『観音様の御利益』により『四、五年来の不景気からヤット(※ママ)足を抜き初めた』」、という北海タイムスの記事(1934年1月8日)が引かれている。
1丁目の観音堂では、観音様の命日である18日をはさんだ3日間に縁日が開かれ、地域の風物詩となっていった。
一方で9丁目の方は、ほどなくして裁判沙汰にまでなる内紛があり、次第にさびれていく。1978(昭和53)年にはついに廃堂となり、光雲作の聖観音像は東京の浅草寺に奉納されたという。
1丁目の方は長く地域と市民に親しまれたものの、1980年代には訪れる人も少なくなり、1985(昭和60)年に廃堂となった。跡地には住職らの手で現在につながる低層のビルが建てられ、本尊は市内の豊平区美園にある浅草三井寺に奉遷された。

西9丁目の札幌観音堂。廃堂が近い1977年(札幌市公文書館所蔵)

西9丁目の現在の札幌観音堂跡地。説明のプレートと、この門柱が残されている
狸小路の東西(1丁目と9丁目)に観音堂が建てられていく、昭和一桁の時代。重たい不況の中で三越の出店が告げられ、店主たちは知恵を絞り、競い合っていた。東と西との軋轢の詳細について「札幌狸小路発展史・改訂版」(1955年)では、編纂の時点で問題の渦中にあった人物のほとんどが存命で、20年前のこととはいえ、「互いの感情を刺激するのを慮(おもんぱか)って、本当のことを語つて呉れない」、と書いている。
そんな中で、1丁目の源流ともなった三国屋の四男坊、南部忠平がロスアンゼルスオリンピック(1932年)の陸上三段跳で金メダルを取ったことは、人々にとってどれほど心躍る出来事だっただろう。もちろん、凋落した南部家にとってもその価値は計り知れなかったはずだ。
忠平はその前年に東京で走幅跳の世界記録を樹立して(7m98)、この五輪では走幅跳で銅メダルも獲得している(7m45)。さらには男子4×100mリレーのメンバーとしても5位入賞を果たした。
歴史はいつも、凡庸な物語の隙間にあるはずの細部を求めている。
現在は多くのインバウンドが行き交い、古くから消費を軸にする札幌経済の最前線を体現する狸小路には、時代と時間のレイヤーが複雑に折り重なっている。狸小路を歩くことは、道都の成り立ちを意識しながら、そのひとつひとつに分け入っていくことにも繋がるのではないだろうか。

1丁目で繁栄した三国屋を実家にもち、ロサンゼルスオリンピック(1932年)陸上三段跳で金メダルを獲得した南部忠平。同五輪でのワンシーン
※パブリックドメイン(1932年撮影、著作者不明、公開日2015年8月19日、画像出典:[Chūhei Nambu 1932.jpg] – Wikimedia Commons)