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今から約1万5000年前、縄文時代の人々は津軽海峡を舟で行き来していた。
海峡の両側に広がる道南と北東北は、青森市の三内丸山遺跡をはじめとして
函館市の大船遺跡、垣ノ島遺跡など、縄文文化を代表する遺跡が多数見つかっており
このエリアが一つの共通する文化圏を成していたことがわかっている。
北海道と本州の間に大河のごとく流れる海峡は、
はるか昔から互いを隔てる「境界」ではなく、密接につなぐ「道」として機能してきた。
津軽海峡を軽々と越えた縄文の精神を少しだけのぞいてみよう。

石田美恵-text 黒瀬ミチオ-photo

津軽海峡と縄文時代のはじまり

北海道と本州の間に津軽海峡ができたのは、最終氷期(今から1万5000年〜2万5000年前頃)より前と考えられている。当時は海面が今より130mほど低く、北の宗谷海峡や東の間宮海峡はまだ陸で、北海道は大陸とつながっていた。旧石器時代の人々がマンモスを追いかけていたころである。
ただし、津軽海峡は浅いところで水深140m、深いところは400mにもなるため、海峡はすでにあったと考えられる。その後、温暖化が進んで海面が上昇し、北海道は現在のような「島」となった。

日本列島は現代よりずっと温暖になり、人々はマンモスではなく、森で木の実を集め、魚貝類やシカなどの動物をとるようになった。土器を作って食べものを煮炊きし、決まった場所に家を作って暮らすようになった。今から約1万5000年前、縄文時代のはじまりである。

●最終氷期の北海道周辺
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●旧石器・縄文・弥生時代の区分
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出典:北海道・北東北の縄文遺跡群 http://jomon-japan.jp/jomon-cultur/

海峡を渡る舟

津軽海峡を最初に渡ったのは、旧石器時代終わり頃の人々だろうといわれている。
その手段が舟だったのか、結氷期の氷橋を渡ったのかはよくわからない。さらに縄文時代になると、人々はもっとひんぱんに海峡を行き来するようになった。海峡を渡るには木製の舟を利用していたと考えられる。残念ながらこのエリアでは発見されていないが、日本列島のあちこちで、縄文時代の丸木舟が見つかっている。
しかし、手こぎの小さな舟で、流れの速い津軽海峡をぶじに渡ることができたのか。いったいどれくらいの時間がかかったのだろう。

そう思っていたら、実際に試してみた人たちがちゃんといた。
2002年6月19日、北海道の旧戸井町(現函館市)と、青森県大間町の間、約17.5kmを手こぎの木舟で渡る実験が行われたのだ。挑戦者は両町の有志、研究者、行政などのメンバーからなり、このエリアに古くから伝わる「ムダマハギ」という木舟が使われた。
ムダマハギは「ムダマ」と呼ばれる舟底の木材に、側面から波よけの板を付けた独特の舟で、荒波にも耐える丈夫な構造をもっている。ちなみに、津軽海峡に面した戸井貝塚から、舟の形をした縄文後期の土製品が出土している。この舟は側面が大きく立ち上がり、外海の波をかわすため補強されているように見える。底にはしっかりと太い木材を示すような線が刻まれている。この舟形のモデルが、ムダマハギのルーツかもしれない、と考えると楽しい。

ともあれ、木舟は朝5時に大間を出発し、こぎ手5人が1チームとなり、5チーム交代で約9時間後、戸井の汐首岬に到着した。縄文の人たちは交代しなかったかもしれないが、充分明るいうちに海峡を渡りきることができそうだ。
津軽海峡特有の濃い霧や季節風を避け、潮汐や海流を読み、たくみに舟をあやつる縄文の人々を想像してみる。もし、かれらが五感の鈍りきった現代の私たちをみたら、きっと嘆き悲しむことだろう。

戸井貝塚から出土した「舟形土製品」(写真提供:市立函館博物館)

戸井貝塚から出土した「舟形土製品」(写真提供:市立函館博物館)

ローカルとグローバル

日本列島で約1万2000年間続いた縄文文化は、すべてが均一だったわけではなく、いくつかの文化圏に分かれていた。函館市縄文文化交流センター副館長(取材当時)の福田裕二さんにお話をうかがった。
「道南と北東北では、『他人のそら似』では済まされないほどよく似た土器が大量に見つかっています。これは、縄文早期から晩期までずっと続いており、津軽海峡をはさむエリアが同じ文化圏だったことを示す重要な証拠の一つです」

一方、同じ文化圏内でも、限られた地域に見られる独自文化もあった、と福田さんは指摘する。
「たとえば、縄文中期末に渡島半島を中心に作られた土器があります。ちょうど本州の土器と道央部の土器を折衷したようなスタイルで、それぞれの特徴が融合した独自の土器文化を形成しています」
そのほかにも、一時期だけに集中して見られる形式の竪穴住居や、他の地域とは大きく違う石器、土製品などが道南で見つかっている。

さらに、福田さんは言う。
「地域限定的な文化が発達する時期だからといって、広い共通の文化が排除されていたわけではありません。グローバルな目も同時にもっていて、その時期の潮流はしっかり反映しています。ただし、ローカル色が強くなるときは、北海道が厳しい寒期になった時期など、自然環境の大きな変化があったときと重なるように思われます」
私たちはただ想像するしかないが、大きな環境変化に直面した縄文の人々は、それにたくましく向き合い、うまく馴染むために、新しいスタイルを生み出していたのかもしれない。

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函館市内のなかでも特に遺跡がたくさん見つかっている南茅部(みなみかやべ)地区にある「函館市縄文文化交流センター」の副館長、福田裕二さん(取材当時)

●縄文時代の日本列島における文化圏
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函館市縄文文化交流センターに展示される縄文土器。地元で出土した多量の土器などのうち、氷山の一角にも満たないごくごく一部

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函館市の遺跡から大量に出土した「青竜刀形石器」
祭祀の道具と考えられる「青竜刀形石器」は東日本でも多く出土しているが、表面がきれいに磨かれたものが多く、それに比べると道南のものは荒削り。これくらいで良しとされたのか、または、最初に道南で大量生産し、東日本に運んでから仕上げたのかもしれない

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函館市の垣ノ島遺跡から出土した「足形付土版」
(写真提供:函館市教育委員会)
子どもの足形を押しつけて焼いた土製品。大人の墓から出土し、亡くなった子の形見として副葬したことも考えられる。縄文早期末の土版は、函館に集中的に分布している。表面には縄文早期に北海道で広く分布する「東釧路式IV式」と呼ばれる土器と同じ文様が見られる

カックウと盛土(もりど)遺構が語る、拠点集落・南茅部

1975年に旧南茅部町(現函館市)のジャガイモ畑で発見されてから約30年間、役場の金庫に保管され普段は一般公開されることがなく、「禁固30年」といわれた中空(ちゅうくう)土偶(通称:カックウ)。2007年に北海道唯一の国宝となった現在は、縄文文化交流センターの展示室に、静かに堂々と佇んでいる。

このカックウ、出土は確かに南茅部だが、作られたのは別の場所かもしれない、という説がある。
そもそも道南では土偶があまり出土していない。カックウのように精巧で完成度の高い、いわば最高レベルの土偶が、土偶作りがそれほど盛んでなかった場所で生まれたとは考えにくい、というわけだ。どこか別の場所で作られ、大事に運ばれてきたのかもしれない。さらに、これだけの土偶が送り込まれたということは、当時この南茅部エリアが大きな求心力を持ち、人やモノが集まる拠点的な場所だったと推測される。

カックウとよく似た土偶が、青森や宮城、遠くは東京からも出土している。りりしい一本眉、コーヒー豆のような目と口、高い鼻、あごヒゲ(のようなもの)までそっくりである。津軽海峡文化圏を越えて存在したカックウの仲間たちから、さらに大きな文化のつらなりが見えてくるようだ。

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北海道がほこる国宝・中空土偶。身長41.5cmと国内最大級の大きさで、極めて精巧で写実的な作り。縄文後期、約3500年前に作られた

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東京都町田市の田端東遺跡から出土した「中空土偶頭部」、通称「まっくう」
(写真提供:東京都町田市教育委員会)

縄文時代、南茅部が地域の拠点だったかもしれない、と推測する根拠としては、アスファルトの存在も見逃せない。アスファルトは原油に含まれる天然物質で、粘着性や耐久性があり、縄文時代も土器や土偶、石器などの接着、補修に利用されていた。主な産地は秋田や新潟で、そこでとれたアスファルトが関東、東北、北海道へ運ばれていたことがわかっている。
そのアスファルトが、南茅部の遺跡から巨大な塊で出土している。塊は一つの遺跡で使うには分量が多すぎるため、本州からきたアスファルトが一度南茅部に集まり、そのあと道内各地へ分散したのではないか、と考えられる。当時の南茅部は、いわば貿易ターミナルのような役割を果たしていたのかもしれない。

縄文時代、南茅部は山、川、海の三つの要素が凝縮された住みやすい環境だった。なかでも、垣ノ島遺跡は縄文早期から後期まで、約6000年にわたって人が住み、たくさんの生活の跡を残している貴重な場所である。遺跡の最大の特徴は、長さ170m、幅120mにも及ぶコの字形の巨大な「盛土遺構」。
盛土遺構とは、名前の通り土を盛り上げて形づくるもので、集落内の一定の場所に、大量の土砂とともに土器や石器などが埋められている。お墓と考えられる穴も見つかっているので集団墓地でもあったらしい。

「盛土は日常の道具や食べもの、亡くなった人など、すべてに宿る命を送る神聖な場所だったのでしょう。これほど大規模な垣ノ島の盛土は、一つの集落だけではなく、周辺にあるいくつもの集落の人々が連携して造ったことも考えられます」と福田さん。
詳しい発掘調査により、垣ノ島遺跡の盛土は一度にここまで大きな形ができたのではなく、約1000年の長い歳月をかけて、少しずつ形を変えながら造り継がれてきた可能性がでてきている。

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垣ノ島遺跡、点線部分が「盛土遺構」。右側に見えるのは津軽海峡の海
(写真提供:函館市教育委員会)

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盛土遺構の一角を掘ると、石器や土器などおびただしい量の遺物が出土する
(写真提供:函館市教育委員会)

これからの遺跡とのつきあい方

遺跡とは、昔の人が作った建物や墓、貝塚、盛土、集落跡、ストーンサークルなど、人々が活動した証(あかし)が残る場所である。発掘後、歴史的に重要と判断されれば、しかるべき指定を受けて保存・活用される。見学できるよう整備され、出土品は博物館に展示される。しかし、一般的には「ちょっと遠い存在」と思われていないだろうか。

福田さんは言う。
「多くの人が遺跡や出土品を目にするのは、わざわざ観光で来たときとか、学校の社会見学でとか、何か特別な場合が多いですよね。でも、もっと普通の日にも足を運んでもらい、いろいろな楽しみ方ができる場所になればと思います。休日に公園に来るように、好きな絵を見にギャラリーに来るように、遺跡や博物館がもっと親しい存在になればと。そして、そのためには私たちが常に情報を更新し、伝え続けることが欠かせないと思っています」

函館市では現在、縄文文化交流センターに隣接する垣ノ島遺跡の公開に向けた整備計画を進めている。
「見学者が遺跡の内部に入って、発掘の様子が見られたり、縄文時代をもっと身近に感じられたり、楽しい空間にしたいと計画中です」と福田さん。2020年に予定されている一般公開が待ち遠しい。
「それから、子どもたちが歴史について想像をめぐらせ、愛着や誇りをもつような場所になればうれしいです」

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大船遺跡「縄文のにわ」全景
(写真提供:函館市教育委員会)

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青森市の三内丸山遺跡
(写真:伊田行孝)

現在、噴火湾を中心とした北海道と、北東北3県(青森、秋田、岩手)にある17の縄文遺跡を世界遺産にしようという取り組みが進められている。2012年に発足した「北海道・北東北の縄文遺跡群の世界遺産登録をめざす道民会議」(略称・北の縄文道民会議)で、事務局長を務める戎谷侑男(えびすたに・ゆきお)さんはこう話してくれた。
「実際に遺跡に行ってみると、説明を聞くだけよりもずっと多くのことがわかって、理解も興味も深まります。縄文遺跡群が世界遺産に登録されたら、それが私たちの活動の本当のスタートです。遺跡を訪ねてくれる多くの人たちを気持ちよくお迎えできるよう、みんなで応援していきます」

この土器に何を入れていたのだろう。この石器はどんな風に使っていたのだろう。どんな気持ちで津軽海峡を渡ったんだろう。研究者でなくても、考古学者でなくても、はるか1万年前の世界を想像するのは楽しい。
私たちの遠いご先祖様の暮らしぶりをちょっとのぞき見しに、縄文遺跡へ行ってみよう。

▼クリックすると大きな写真でご覧いただけます。

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●函館市縄文文化交流センター 
縄文文化に特化した特徴的な博物館。函館市著保内野(ちょぼないの)遺跡から出土した「国宝・中空土偶」を常設展示し、北海道の縄文文化発信の拠点としてさまざまな活動を展開中。道の駅「縄文ロマン南かやべ」を併設
住所:北海道函館市臼尻町551-1
TEL:0138-25-2030
http://www.hjcc.jp/

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*カックウの顔づくり、ミニチュア土器づくり、縄文のペンダントづくりなど7種類の体験メニューがあり、子どもから大人まで楽しめる。希望の方は受付カウンターでチケットを購入のこと(料金は200〜500円)

[関連リンク]
北の縄文道民会議
http://www.jomon-do.org/
北海道・北東北の縄文遺跡群
http://jomon-japan.jp/
縄文世界遺産推進室(北海道環境生活部くらし安全局文化・スポーツ課)
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/jomon/


[参考文献]
・安田喜憲・阿部千春編 『津軽海峡圏の縄文文化』 雄山閣
・函館市教育委員会監修 『函館市縄文文化交流センター』 NPO法人函館市埋蔵文化財事業団
・「垣ノ島遺跡発掘調査報告書」 函館市教育委員会
・福田友之著 『津軽海峡域の先史文化研究』 六一書房
・盛田稔・長谷川成一責任編集 『図説 青森県の歴史』
・岡田康博著 『三内丸山遺跡』 同成社
・小山修三・岡田康博著 『縄文時代の商人たち』 洋泉社
・川崎保著 『文化としての縄文土器形式』 雄山閣
・「仙台市博物館調査報告」 第32.33合併号
・独立行政法人国立文化財機構監修 『日本の美術No.515、527』

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