三浦綾子記念文学館(旭川市)の難波真実(まさちか)事務局長によれば、三浦綾子の『塩狩峠』(新潮文庫)は昨年、およそ1万8千部も増刷されたという。50年前の発表以来、累計販売部数は370万部以上。加えて電子書籍版もあるし、図書館で読まれる分もいまなお全国で膨大な数にのぼるだろう。英語をはじめとしたたくさんの翻訳版もある。
三浦綾子は、戦中戦後に小学校の教壇に立ったのち、長い闘病生活をおくった。朝日新聞社の懸賞小説公募に応募した『氷点』によって一躍ベストセラー作家となり、『塩狩峠』、『泥流地帯』、『細川ガラシャ夫人』など話題作を次々に発表。77年の生涯のほとんどを旭川で暮らした。
1966(昭和41)年から日本基督教団出版局の月刊雑誌『信徒の友』に連載された『塩狩峠』は、ある衝撃的な事故をもとにした小説だ。
1909(明治42)年2月28日の夜。名寄から旭川をめざす汽車が塩狩峠に差しかかる。ボイラーをフルに焚いて急勾配を上る蒸気機関車だったが、突然最後尾の客車の連結器がはずれ、一両だけが下がりはじめる。スピードがつけば山中のカーブでまちがいなく脱線してしまうだろう。当時のルートは直線化が進んだ現在よりずっとカーブが多かったのだ。塩狩峠越えの車両にはいつも補助の機関車がつけられたが、この日はなにかの事情で一台の機関車だけだったらしい。
車内に悲鳴が飛び交った。乗り合わせた鉄道職員長野政雄がとっさに席を立つ。車両デッキについているハンドブレーキに飛びついて懸命にまわすが効かなかった。カーブは目の前にせまってくる。すると長野は我が身を車輪止めとすべく、なんと自ら線路に飛び込んでしまった。そうして車両は長野の体に乗り上げ、その命と引き換えにようやく止まったのだった。
1964(昭和39)年の初夏、三浦綾子は自らが通う日本基督教団旭川六条教会で、長野政雄の部下だった信者と出会う。長野が残した文章などはごく限られたものだったが、三浦はこの事故と長野の人となりを知り、作品にしたいと意欲を燃やした。小説のあとがきにはこうある。「わたしは長野政雄氏の信仰のすばらしさに、叩きのめされたような気がした。深く激しい感動であった」
三浦は資料をもとに、自らの人生を脚色して加えながら『塩狩峠』を書き進めた。主人公の名は、長野政雄ではなく永野信夫。長野の生年は1880(明治13)年だが、永野は3つ上で、数え33歳で殉職することになる。三浦綾子記念文学館によれば、33歳は三浦のかつての恋人前川正が死んだ満年齢で、伝統的にイエスが十字架の上でみまかったとされる年齢でもある。また永野には長い病からの回復期にある婚約者がいたのだが、恋人の設定には、夫となる三浦光世と綾子自身の恋愛と結婚のいきさつが深く織り込まれていた。
主人公信夫は東京に生まれ、キリスト教を忌み嫌う祖母が亡くなると、死んだと聞かされていたキリスト者の母と再会する。なにしろ江戸の世に生まれた人々がまだ社会の大半を占めていた時代。キリスト教への不信や無理解は大きく、信夫もキリスト教徒である母になじめなかった。やがて親友の誘いで北海道に渡り鉄道員となる。友には、長く伏せっているが心の強い、信仰に生きる美しい妹がいた。この妹の設定には、若き日の結核や脊椎カリエスにはじまり、のちに癌や最晩年のパーキンソン病にいたる、生涯を通してさまざまな重い病を受け入れた作家自身の姿が重ねられている。信夫は、信仰に生きる彼女とある伝道師との出会いを通して、キリスト教の信仰に目覚めていくことになった。伝道師が街角で、愛とは自分の最も大事なものを人にやってしまうことだ、と訴える一節がある。読者はやがて、永野の最後のふるまいがそのことにほかならないことを知るだろう。
事故が起こった1909(明治42)年。そのころの道北では、天塩線(当時は旭川・名寄間)が北海道官設から国有鉄道になり、さらに北をめざす工事のさなか。音威子府まで延びたのが1912(大正元)年で、稚内に達してそこから樺太の大泊(現コルサコフ)への連絡船航路(稚泊航路)が開業したのは1923(大正12)年のこと。この時点で東京から樺太まで、近代国家の北方軸となる交通インフラが完成した。
さらに広く時代を俯瞰してみよう。まず1917(大正6)年のロシア革命にともなう日本のシベリア出兵とその大きな犠牲があった。そして個人の自由な内面や行動を奪う治安維持法の制定(1925年)がつづく。世界恐慌(1929年)に追い詰められるように大陸進出を本格化させた日本は、満州事変(1931年)から15年ものあいだ、立ち止まることなく戦争の時代を暴走することになる。
前回の稿でふれたように、日本海をはさんだロシア沿海州の20世紀も、帝国の版図を猛烈な勢いで広げることではじまっていた。そのための探検行を記録したウラディミール・アルセーニエフの『デルスウ・ウザーラ』は、深いタイガ(針葉樹の大森林)の地理調査を進めるアルセーニエフ(ウラジオストク義勇隊隊長)の案内役を務めた、デルスウ・ウザーラという人物をめぐる魅力的なノンフィクションだ。デルスウは先住民族ナーナイだった。
冒頭近く、ロシア正教の敬虔な旧教徒がデルスウを指してこう言う。「(デルスウは)神を信じない。それなのに、わしらと同じに生きておる。ふしぎなこった! あの世ではどうなるんだろう? 彼には魂はなくて、ただ息があるだけさ」
そのロシア人の目から見たデルスウは、神を持たない空っぽの生きものだった。一方でデルスウからロシア兵は、目の前にある豊かで複雑な自然の実相にわざわざ目をつぶり、ありもしないものに惑わされている者たちに見えた。野営の夜、空を行く彗星を見ながら、最近の洪水はあのせいだ、などと話す兵士たちの横でデルスウはつまらなそうにつぶやく。「あれはいつも空をいく、人のじゃまはしない」。
彼は事物をそのあるがままに判断した。それが、タイガで生き延びていくために不可欠な資質だった。
さて永野信夫の心には強い信仰がみなぎっていたのだが、『塩狩峠』を読む人々の心に芽生えるものはなんだろう。人はなんのために生きるのか。そして人はいかに生きるべきか-。そのヒントを求めて頁をめくる人がいる。その一方で、人間の強さと弱さや信仰のあるなしを、あくまで明晰に腑分けしようとする作家の筆について行けない、と感じる人もいる。受け止め方の広さと重さ、そして光が底までは決して届かないほどの問題の深さが、この作品を50年以上にわたるロングセラーにしている。
小説の巻頭には「ヨハネによる福音書」の一節が引用されている。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし。」
愛のために自らの命を捧げたひとりの人間の物語は、その後たくさんの人の議論や思いに結ばれていくことになった。
『デルスウ・ウザーラ』にこんなシーンがある。アルセーニエフが食べ残した肉の小片をたき火にほうったとき、デルスウは、バカなことをするもんだ、そのまま残しておけと苛立った。タヌキやアナグマやカラスやネズミ、そしてアリだって食べるじゃないか。タイガにはいろんな「人」がいるんだぞ、と。デルスウの魂は空っぽではない。彼が地に落とすものもまた、そこから新たな関わりを生む種となる。そこにあるのは、人間と森との深い関わりだ。信仰とは、その関わりを断ち切るものにもなれば、あるいは逆に、さらに豊かにするものにもなるだろう。三浦綾子をどう読むか。そのための地図はどんな人も自分で描くしかない。
三浦綾子を読み続ける人々にとって、旭川の「三浦綾子記念文学館」と、塩狩駅そばにある「塩狩峠記念館」は、たいせつな巡礼の地となっている。ふたつをめぐることでたくさんの人が、三浦綾子をどう読むかという主題をめぐる、自分だけの地図を描こうとしている。
三浦綾子記念文学館
北海道旭川市神楽7条8丁目2番15号
TEL: 0166-69-2626
WEBサイト
開館/9:00〜17:00
休館/6月1日〜9月30日まで無休。10月1日〜5月31日まで月曜休館、年末年始休館
塩狩峠記念館(三浦綾子旧宅)
北海道上川郡和寒町字塩狩
TEL: 0165-32-4088
開館/10:00〜16:30 (4月1日~11月30日。冬期は休館)
休館/毎週月曜日(月曜祝日の場合は翌日)