港まち・室蘭には酒蔵がない。正確に言うとかつてはあった。明治期に道外から移り住んだ人々の求めに応じて各地で酒蔵がつくられ、室蘭も例外ではなかった。その背景を少し見てみよう。
明治期の北海道には、開拓と北方警備を兼ねた屯田兵が配置された。室蘭では1887(明治20)年、現在の中島地区を中心に屯田兵の入植が始まる。さらに1892(明治25)年には室蘭港から幌内(現・三笠市)産等の石炭を積み出すため、岩見沢~室蘭(輪西)間に鉄道が敷かれた。札幌の丸井今井呉服店(のち丸井今井百貨店)が室蘭支店を出したのもこのころ(明治24年)だ。明治20年代中頃の室蘭に、労働者だけでなく、なりわいを興す人々が集まってきたのは自然なことだろう。
酒造業もそのひとつである。『新室蘭市史』には、最初に商業的な清酒の製造・販売を始めた人物として谷藤覚蔵、佐々木卯太郎という名が見える。室蘭市民俗資料館で造り酒屋の企画展を手掛けた室蘭市教育委員会・谷中聖治学芸員によると、「室蘭には明治20年代から、時期がずれながら8軒の酒蔵が存在したようです。そのうち、昭和初期には5軒の酒蔵がありました」
5軒とは津田酒造、栗林酒造、宮酒造、田中酒造、小林酒造。最大手は小林酒造で、戦後、日高にも支店があったが、のちに「小樽 北の誉酒造」と合併して1970年代初めまで「香蘭(こうらん)」という銘酒を製造していた。この酒の記憶を持つ市民も多いと聞く。
全国を見渡すと、明治30年代には、国税の税収のうち酒税が地租(当時)を抜いて1位になったという国税庁の記録がある。1904(明治37)年に醸造試験場ができるなど、酒造業が国の重要な産業になる時代を迎えていた。
そして室蘭の場合、日露戦争後の明治40年代初めに、日本製鋼所(現・日本製鋼所室蘭製作所)と北海道炭礦汽船輪西製鐵場(現・新日鐵住金室蘭製鐵所)が相次いで創業。“港湾のまち”に“鉄のまち”の一面が加わり、酒の需要がさらに高くなる。「大正時代半ばの室蘭の人口は約5万人。当時、室蘭での醸造高は1年で3000石ほどありましたが、6500石は飲まれていました。地元の酒蔵だけではまかなえなかったようです」と谷中さんが教えてくれる。1石が一升瓶100本分なので、かなりの量を地元だけで消費していたことになる。足りない分は、おもに山形の大山酒を飲んでいたそうだ。
さて、では酒蔵の記憶をとどめる場所が、まだ室蘭にあるのだろうか。
たどり着いたのは、噴火湾に突き出した絵鞆(えとも)半島にある測量山のふもと、室蘭駅近くの室蘭中央通。かつて札幌通と呼ばれ、札幌と、港を介して函館方面とをつなぐために拓かれた道沿いの、古くからの商店街に「津田額縁店」を訪ねた。
主の津田和明さんは、現在は路面店舗を人に貸し、裏手に絵画用の額縁を制作する工房を構える。津田さんは5つの酒蔵のひとつ、津田酒造創業者から5代目にあたる。「母が岩手県宮古出身で養女として入り、父は婿養子。だから直接血のつながりはなくて、詳しいことはよくわからないんです」とのことだが、工房および倉庫にしている建物は100年以上前の元酒蔵だという。外側はレンガ造りで中は天井が高く、梁に板が渡されて2階のようになっている。仕込みの時期は蔵人がそこに寝泊まりしていたらしい。
津田酒造の創業者・津田喜平治は、1888(明治21)年という室蘭では早い時期に酒蔵を開いた。喜平治は仙台出身である。「かつては蔵に仙台の瓦を葺いていたようです。その欠片がまだ残っていますよ」と津田さん。『新室蘭市史』には隣まちの伊達から移ってきたとあり、もしかすると旧仙台藩士たちと一緒にやってきたのかもしれない、と空想が膨らむ。おもな銘酒は「登久仙(とくせん)」で、酒の名が入った前掛けや樽、盃などが残されていた。
ふと、ここで疑問が浮かぶ。日本酒には米と水が欠かせない。とくに仕込み水は重要で、酒蔵のそばには、たいてい大きな川が流れている。ところが、室蘭にはそうした川が見当たらない。米は道外から持ち込まれていただろうが、水はどうしたのだろう。
すると津田さんが、「今は埋められていますが、蔵の前には井戸が2つありました。このあたりには測量山からの伏流水が湧いていたんです」。津田さんの工房から700メートルほどのところに旧室蘭駅舎があり、前が「海岸町2丁目公園」として整備されている。ちょうど室蘭八幡宮の下にあたるこの場所に水が湧き、現在も湧き続ける。湧水は明治期から市民の生活用水に、また船舶への給水もしていたという。
たしかに、5つの酒蔵のうち4つが湧水周辺にあったようだ。この良質な湧水は、酒だけでなく、室蘭市民に愛されていた「金港(キンコー)サイダー」の原料にもなった。その製造を始めたのは、津田さんの父方のおじなのだとか。時代が移り変わっても、水の恵みをなりわいとした人の姿が見えてくる。
室蘭は意外にも、水に恵まれた酒造りの地という顔を持っていた。それなのに、酒蔵が消えてしまったのはいったいなぜなのか。
戦争の時代をむかえた昭和初期、価格等統制令によって利益が見込めず廃業したり、その後の企業整備令では、小規模な酒蔵が大手との合併を余儀なくされたことなどがあるだろう。そして終戦間際の1945(昭和20)年7月、室蘭は工場がある地域を中心に艦砲射撃を受けた。資料館には着弾した砲弾の破片が展示されているが、それだけでまちが甚大な被害を受けたことがわかる。
戦後は、日本人の嗜好も変化した。先の国税庁の資料には、昭和31年度にビールの生産量が清酒を抜き1位になったとある。もはや酒といえば日本酒、という時代ではなくなっていた。
しかし、「現代に室蘭の酒を復活させよう」と考えた人がいる。
絵鞆半島の先端、白鳥大橋の近くの、1911(明治44)年創業の老舗酒店を営む酒本久也さん。室蘭の「酒本商店」といえば品揃えに定評があり、日本酒好きなら知らない人はいない名店だ。酒本さんは、札幌・すすきのにある「北海道産酒BAR かま田」の店主・鎌田孝さんの、利き酒師の“師匠”でもある。
ところで、酒本さんの記憶には、室蘭の酒があったのだろうか。「実はなかったんです。うちの店でも扱っていたはずなんですが、子どもでしたしね」。確かに、創業100年記念に作った冊子には、「香蘭」と大きく書かれた店の前に座る、2代目の父・久平氏の姿がある。
酒本さんは3代目として店を継いだが、日本酒が好きではなかった、と言う。「戦後の日本酒は醸造アルコールと水で薄めた三倍増醸酒が一般的で、自分はおいしいと思えなかった。でも、初めて純米酒を飲んだとき、日本酒の本当のおいしさを知って衝撃を受けました」
1987(昭和62)年には、当時あまり出回っていなかった各地の純米酒を紹介する「地酒まつり」を開催。このときに「香蘭」という酒が室蘭にあったことを知る。それをきっかけに自分で室蘭の酒の歴史を調べ、翌年に知り合いの鳥取県の酒造店の協力のもと造りあげたのが「蘭の舞」だ。
「戦前の日本酒は純米酒だったはずなので、昭和60年代にはあまり飲まれていなかったけれども、純米酒であることにこだわって造りました。ただ、昔は発酵技術が今ほど発達していなかったので、アルコール発酵がうまくいかず、米の磨きも不完全でしょうから甘口だったと思います。『蘭の舞』は新しい室蘭の酒として、現在の醸造技術で、米の旨みを出しながらもキレ味よく、辛口よりに仕上げました」
最近は、酒本さん自身がプロデュースしたオリジナルの日本酒にも力を入れる。そのうちの「北力(きたちから)」は、原料の酒米に伊達産の無農薬栽培の酒造好適米を使用。これには酒本さんの、伊達を酒米の産地にしたいという願いが込められている。製造は、若い杜氏によって生まれ変わった、倶知安の二世古酒造に依頼した。どちらも酒本さんが信頼を寄せる生産者であり、杜氏である。飲んでみると、深い旨みを感じながらも喉越しがよく、飲み飽きしない味わい。どんなシチュエーションにも優しく寄り添ってくれそうだ。
「蘭の舞を造ったころは、新日鐵の高炉の廃炉や人口減少で、室蘭が活気をなくした時期でした。酒屋ができることは、酒でまちに力を貸すことだと思ったんです」。酒本さんの室蘭の酒に対する思いは、まちへの思いでもある。
酒は、不思議な飲みものだと思う。人の暮らしがある場所に根付き、まちの記憶になる。初めて室蘭に酒蔵が開かれてから約130年。かつて酒蔵があったまちには、またどんな記憶が刻まれていくのだろう。
室蘭市民俗資料館
北海道室蘭市陣屋町2-4-25
TEL:0143-59-4922
入館料:無料
開館時間:10:00〜16:00(入館は15:30まで)
休館日:日曜、祝日、年末年始 ※春・夏・冬休み期間中は無休
津田額縁店
北海道室蘭市中央町2-8-11
TEL:0143-22-1488
営業時間:10:00〜18:00
定休日:日曜、祝日
地酒&ワイン 酒本商店
北海道室蘭市祝津町2-13-7(本店)
TEL:0143-27-1111(代)
営業時間:9:00~19:30
定休日:日曜
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