札幌苗穂駅周辺地区のまちづくり

産業のまちから、暮らしのまちへ

以前あった場所から約300m西側へ移動したJR苗穂駅。駅の南と北をつなぐのは、大きな窓が明るい自由通路

2018年11月、JR苗穂駅が新しいスタートをきった。以前は南側だけだった駅舎が橋上駅舎となり、北側からも利用しやすくなった。南北をつなぐ広い自由通路ができ、長年にわたる地域の分断問題が解消した。新しいまちの顔から、どんな未来が見えるだろうか。
石田美恵-text 伊田行孝-photo

産業のまち、苗穂のはじまり

広場は、だれでも自由に利用できる場所。広場を起点にどこへでも行けるし、どこからでも安心して帰って来られる。日常の生活の場であり、旅の途中の一コマであり、出会いや別れの場でもある。いろいろな人がいろいろな目的で集まってきて、そこに賑わいが生まれ、まちの中心になる。そう考えると、駅もまちの広場の一つだ。駅とともに歩んできた苗穂の歴史をたどってみよう。

北海道が蝦夷と呼ばれていた幕末期、ロシアの南進政策に警戒を強めていた幕府は、石狩川の下流域を北方防衛の拠点と定め、その奥に位置する豊平川扇状地を食料供給地として開拓することにした。
1866(慶応2)年、幕府から命を受けた大友亀太郎が現在の苗穂北部に幕府直営の模範農場「御手作場(おてさくば)」を設置。ここを開拓の拠点とする。御手作場の周辺は、アイヌの人たちが豊平川につけていた名前にちなんで「察歩呂(さっぽろ)村」と名づけられ、道路や用水路(のちの創成川)が次々と整備された。

明治維新後に開拓使が発足すると、幕府の方針は変更されて行政の中心地が「札幌」と定められる。創成川西部(現在の道庁周辺)に「札幌本府」が設置され、こちらが開拓の拠点となった。亀太郎が切り拓いた察歩呂村は「札幌元村」と名前が変わり、1870(明治3)年に札幌元村南部へ山形や新潟から移住者188人が入植すると、「庚午(こうご)一の村」と呼ばれるように。その翌年、庚午一の村は「苗穂村」と改称する。

苗穂という地名は、アイヌ語の「ナイポ」(小さい川)に由来している。名前の通り、あたりはいくつもの小川や湧水地があって水に恵まれた土地だったことがわかる。その条件を生かし、苗穂周辺には西洋式農業がいち早く取り入れられた。さらに、明治初期から大正時代になると、豊富な農作物を原料として多くの工場ができる。
1873(明治6)年の官営札幌製粉所にはじまり、紡繊・製油・精糖・製麻・製糸の工場や、麦酒・葡萄酒・味噌醤油の醸造所ができ、苗穂は殖産興業を目指す日本の最先端エリアとなる。1909(明治42)年、JR北海道苗穂工場の前身となる「鉄道院北海道鉄道管理局札幌工場」が誕生すると、鉄道車両の製造、検査や修繕を一手に担うようになり、翌1910(明治43)年ついに苗穂駅が開業する。駅周辺に大小さまざまな工場が建ち並び、専用の線路を引いて貨物も増加し、苗穂の工業化は一気に加速していった。

JR苗穂駅に隣接して苗穂工場と苗穂車両所があり、全道から様々な車両が整備点検に集まってくる

このころできた工場は、ウィンターキャラメルで一世を風靡した古谷製菓(1917年)、いまも続く味噌と醤油メーカー福山醸造(1918年)、雪印メグミルクの前身である北海道製酪販売組合工場(1926年)など。工場や鉄道で働く人たちとその家族で、苗穂周辺の人口は増え続けた。また、1922年に市電苗穂線が完成し、苗穂駅と道庁前までの全線が開通。苗穂から路面電車に乗れば、札幌のどこにでも便利に行けるようになった。こうして、苗穂は産業のまちとして発展を続ける。それは、札幌都心部の発展とぴったり重なっていた。

 

まちの空洞化と住民の危機感

時代は少し先へと進み、苗穂と札幌都心部の発展は、やや違った様相を見せ始める。
1966年に冬季札幌オリンピックの開催が決まると、札幌都心部は新しい都市基盤の整備に取りかかる。1971年に地下鉄南北線が開業し、これにともない市電苗穂線は廃止。鉄道や道路の整備が急速に進められ、工場や物流拠点が次々と郊外・市外へ移転していった。苗穂には広大な工場跡地が増え、働いていた人たちの多くは郊外へ引っ越し、残る住民はお年寄りが多くなった。あちこちに空き家が目立ち、夜になると人気のない真っ暗な路地が延々と続く。苗穂周辺の急速な空洞化が始まったのである。

「当時の住民たちの危機感はかなり強かったと思います」
1993年にできた「苗穂駅周辺まちづくり協議会(当初はJR苗穂駅北側地区再開発協議会)」で、ずっとアドバイザーを務めている山重明さんはこう話す。
「空き地や空き家がすごいスピードで増え、『創成川を渡った東側は危険』と言われるくらいイメージが悪くなりました。これはまずいと住民たちが集まり、まちのイメージを回復しようと始まったのが、この協議会の活動です」

まちのイメージを良くするには、まずは自分たちが自信を持たなければいけない。
協議会は苗穂を見つめ直すために、ワークショップを繰り返し開催した(現在も継続している)。集まる人は会を重ねるごとに増え、50名を超えることもしばしばとなった。その話し合いのなかで、「苗穂の歴史を象徴する財産」がいくつも浮かび上がってきた。
たとえば、サッポロビール博物館、福山醸造、雪印資料館、北海道鉄道技術館、札幌郷土資料館……。まちの歴史を再発見する動きは、地域の誇りを取り戻す動きへつながった。

サッポロビール博物館は1905(明治23)年に開業したかつてのビール醸造所。樽に「麦とホップを製すればビールという酒になる」という当時の謳い文句が見える

福山醸造株式会社の前身、福山商店は1891(明治24)年に創業し、1918(大正7)年に広い敷地と伏流水に恵まれていた苗穂に第二工場を建設。そのころできた11棟のレンガ造りの工場はいまも現役だ

協議会の活動が始まって10年近くが経過した2004年、第2回目の選定によって「札幌苗穂地区の工場・記念館群」が北海道遺産の一つになった。
「苗穂の歴史的な財産が北海道遺産として認められ、広く発信されることになって、協議会にとってすごく勇気をもらえたできごとでした」
山重さんはそうふりかえる。

その後、協議会の情報を掲載するウェブサイトや掲示板「はばたく苗穂」を立ち上げ、歴史スポットを紹介する「苗穂産業遺産マップ」の作成や、公園の花壇づくりや清掃活動、農産物の産直市、タウンウォークなど、積極的な活動を展開。設立から26年、現在の協議会参加メンバーは、苗穂駅をはさんで南北にある全町内会と地元商店街と企業・約80社にのぼる。

苗穂駅周辺まちづくり協議会が作成した「苗穂産業遺産マップ」。苗穂の歩みや見所を紹介している

人の暮らしが真ん中にあるまちへ

そして現在。苗穂から少し離れて札幌全体に目を向けてみたい。
1972(昭和47)年に開催された札幌オリンピックによって札幌が国際都市として飛躍した時代を過ぎ、まちはいま大きな転換期を迎えようとしている。北海道の人口減少が一層加速し、札幌も2020年には人口減少に移行、他の地域同様に超高齢化社会へ突入するといわれる。人口や年代分布の変化を受けて都市構造も変わりはじめ、これまで広がり続けていた郊外の住宅地から、都心周辺への人口回帰が見られるようになった。1960年から減少し続けていた中央区の人口は1995年に増加へ転じ、以後V字型の増加傾向となっている。かつての苗穂地区の空洞化とは反対に、郊外の空洞化が起こり始めたのだ。

札幌駅の一つ隣の苗穂駅周辺も、近年人口が急増している。
かつての工場跡地は大きな商業施設や公共施設、病院、高層マンション、高齢者住宅などに変わり、新しい住民が暮らしはじめている。JR苗穂駅の移転・橋上化と自由通路の設置は、こうした変化のなかで20年ほど前から構想が本格化する。
苗穂駅周辺まちづくり協議会は、JR北海道や札幌市などと検討をかさね、住民の意見を伝えてきた。2004年には協議会の全世帯に駅移転に関するアンケートを実施し、現在の新苗穂駅の場所に橋上駅を設置することに約8割が賛成の意向を示した。

苗穂駅に向かう広々とした自由通路は、自転車も押して通ることができる

「これまでは、苗穂を含め創成川東部は線路やアンダーパスなどで分断され、人が縦横に歩くことがしづらい地域でした。でもこれからは、『人が中心のまちづくり』が基本になります。人が歩いて移動できたり、屋内外合わせて都市のあちこちに設けられた広場でくつろいだり、おしゃべりしたりといった、日常的なゆとりが大切にされます。
土地の使い方や建物の建て方も、以前は効率が最優先で詰め込み型でしたが今は違います。特別な用事がなくても、そこに来て、居心地よく過ごせる空間=広場がたくさんあると、そのまちはすごく住みやすくて魅力的ですよね。広場は、新しいまちづくりに欠かせないテーマだと思います」と山重さんは言う。

真新しい苗穂駅舎の南北双方には、広々とした駅前広場が設けられている。これから住民との協働で駅と広場の空間が整備されていくという。周辺には、住民が植えた花壇やベンチがあって、地域の住民や有志が改築した苗穂カフェ(中央区 北2条東11丁目)やサッポロビール園の庭園や公園もある。かつての産業のまちから人々の暮らしのまちへ、苗穂の新しい物語が始まっている。もちろん、北海道の産業を支えてきた歴史と誇りをずっと大切にしながら。

北3条通に面した苗穂駅南口(上)と新設された北口(下)。どちらの駅前にも広場としても機能する空間がある。北口は大型商業施設とつながり、マンションなどの開発が進められている。

苗穂駅からてくてく行ける、オススメ歴史スポット
「旧永山武四郎邸及び旧三菱鉱業寮」

苗穂駅周辺で開拓時代の歴史をたずね歩くなら、札幌本府と苗穂をつないでいた「開拓使通り」(現・北3条通)を通ってみませんか? 途中には、第2代北海道道庁長官を務めた永山武四郎の自邸と、たくさんの草木が茂る永山武四郎公園があります。
永山邸をはじめ札幌市内で長年ボランティアガイドをしている星川均さん曰く、「明治時代の味わい深い和洋折衷建築と、当時から大切にされてきた巨木が心地よい空間を作っています。どの季節も色合いが違って魅力的なので、ぜひゆっくりお楽しみください」とのこと。苗穂駅からのお散歩に、ちょっと足を伸ばしてみましょう!(駅から約1km)。

札幌市ボランティア連絡会の会長も務める星川均さん

旧永山武四郎邸及び旧三菱鉱業寮
特集 北海道150年。もう一人の武四郎

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