島の歴史と産業をまるごと「エコミュージアム」に

利尻島には現在もニシン漁の遺構が多く遺されている(泉の袋澗)

遺跡や遺構、モノなど北の島には貴重な遺産が多く遺されている。島の営みの記憶も人々の口から聞くことができる。こうした土地の宝物を発信するための「フェノロジーカレンダー」を制作し、さらなる活用を図る「利尻しまじゅうエコミュージアム」の取組みが利尻島でスタートしている。
萩 佑-text&photo

ヒトは北へ、モノは南へ~利尻の漁業遺産と生活文化

利尻島に初めて人が移り住んだのは今から1万年以上前の旧石器時代といわれている。利尻島には、縄文時代、続縄文時代、オホーツク文化、擦文文化の遺跡もあり、サハリンなどとの交流を示す遺物も発見されている。
江戸時代、朝鮮王朝の官吏8名が利尻島に漂着、アイヌの人々と出会った。アメリカ人ラナルド・マクドナルドは、日本に渡って日本語を覚え、通訳になることを目指し利尻島に上陸している。国内からは、ロシアの南下に対するため、会津藩士約250名が利尻島に派遣され、約2カ月間にわたり警備に当たった。島内の寺などには過酷な生活のなかで命を落とした藩士の墓もいくつか現存している。

会津藩士の墓(慈教寺)

近世において利尻を支えたのはニシン、昆布、海鼠、鮑などの海の幸であった。春に西蝦夷地の浜に群れて来るニシンは、〆粕、身欠きニシン、数の子として松前・江差に送られ、そこから本州各地に北前船で運ばれた。〆粕は、肥料として西日本を中心とした我が国の近世・近代の農業を支え、数の子や昆布に巻かれた身欠きニシンは、正月のおせち料理として食べられた。
日本海を北流する対馬暖流は人を運び、また、北からの風は利尻島をはじめ北海道の海の産物を、南の本州をはじめとした日本列島各地に運ばせたのであった。このことから利尻島・北海道は「ヒトは北へ、モノは南へ」という海の道を今に伝える顕著な地域である。
とくに明治以降は、ニシンの豊漁を背景に、利尻島には東北、北陸、山陰などの日本海沿岸を中心とした各地から多くの人々が移住してきた。明治末から昭和のはじめまで、最盛期には年間10万トンもの水揚げがあるなど、島はニシン景気に沸いた。

鳥取から伝わった麒麟獅子(写真提供:西谷榮治氏)

かつての袋澗の写真(写真提供:利尻富士町)

しかし、昭和30年頃を境にニシンは獲れなくなり、ニシン漁は衰退の一途を辿ることとなった。現在、島の漁業を支えているのは有名な利尻昆布を始めとするウニ、ホタテなどの漁業資源であるが、現在でも島内にはニシン漁が栄えた当時をしのばせる袋澗(ふくろま=ニシンの陸揚げの際に一時貯蔵するために石積みで囲った小さな港)や釜場(かまば=ニシンを加工するために使っていた大きな釜)の痕跡などが各所に見られる。
加えて全国各地から島にやってきた人々が故郷から移り住む際に持ち込んだ伝統芸能、方言・年中行事などは、今なお島の人々の暮らしの中に色濃く残っている。いずれもかつてのニシン漁の記憶を伝える貴重な遺産といえる。これらの遺産は「利尻島の漁業遺産群と生活文化」として2018(平成30)年11月に北海道遺産に選定された。

 

島の1年をカレンダーに~フェノロジーカレンダー制作

利尻では、こうした漁業関連の遺産を始めとする島のこれまでの歩みを今に伝える文化財を観光に活用することで、現在から未来に渡り遺産の価値を保全継承し、新たな価値を創造するための仕組みを作り出そうとする方針のもと様々な取組みが数年前から行われている。
利尻島の遺産群の価値はわかりやすいものではなく、遺産をそのまま観光客に見せても十分な理解や満足を得ることができず、持続的な地域資源としての活用の難しさも指摘されている。こうしたことから、遺産を物語るストーリーを解き明かし、丁寧に伝える方法を取ることで、利尻の遺産が持つ魅力を発信し、そして保全継承につなげることが求められている。
そのための取組みの一つがフェノロジーカレンダー「利尻の島暦」の制作である。フェノロジー(英Phenology)とは、学術的には、植物の発芽・開花・落葉など、生物の活動周期と季節との関係を研究する学問のことをいう。
地域のライフスタイルは、その地域の気候、地形などの自然環境に大きな影響を受ける。とくに四季の明瞭な日本では、季節ごとに自然の恵みに対する感謝など、地域ごとのユニークな食・行事がある。
そうした自然現象と文化事象などの地域資源をカレンダーの形で一覧できるように整理したものがフェノロジーカレンダーである。時期ごとの自然環境、食、産物、年中行事などを一目で把握することができるので、例えば観光プログラムの作成などに活用することができる。

フェノロジーカレンダー「利尻の島暦」「鬼脇の島暦」

利尻富士町では、2017(平成29)年に利尻島内でも古くから栄え、縄文時代の遺跡から、運上屋跡、ニシン漁の遺産が残る本泊(もとどまり)地区をモデル地区としてフェノロジーカレンダーの制作を行った。制作にあたっては、北海道教育大学函館校の学生11名が約1週間、閉校となった旧本泊小学校に滞在して、地区内の文化遺産の視察、昔のことをよく知る住民の方へのインタビューなどを行い、その調査結果をもとにしている。メインのコンテンツとして気候、山(利尻山)の姿、花、人の暮らし、海の幸、鳥の各項目について一年のうちの移り変わりが一覧できる「利尻の島暦」、本泊地区のマップや地区内に点在する文化遺産の紹介、年表などを示した「本泊地区・文化遺産マップ」を掲載している。
2019(平成31)年には島の南東部に位置する鬼脇地区においても同様の手法でフェノロジーカレンダーを制作した。
これらは島内各所に配布され、また丘珠空港にも設置されるなどPRに活用されているが、今後これらを活かしたツアープログラムの作成・販売などの展開も期待されている。

北海道教育大学函館校の学生たちによる調査活動

利尻しまじゅうエコミュージアム~島全体で遺産の保全活用を

利尻の産業遺産の保全活用に向けた様々な取組みの推進母体として2019(平成31)年4月1日に「利尻しまじゅうエコミュージアム」が設立された。「しまじゅう」という言葉には利尻島全体=今あるまたは過去にあった、未来に遺すべき「ヒト」「モノ」「コト」すべて、という意味が、そして「エコミュージアム」には、地域の人々の生活と自然、文化および社会環境の発展過程を史的に研究し、それらの遺産を地域において保存、育成、展示することによって、地域社会全体の発展に寄与する、いわば利尻島全体が博物館である、という思いが込められている。
利尻島には利尻富士町、利尻町2つの町があるが、この利尻しまじゅうエコミュージアムの構成団体にはそれぞれの町の役場、教育委員会、観光協会が入っており、2つの町が協働する取組みとなっている。
すでに今年度この利尻しまじゅうエコミュージアムによる取組みがいくつか行われている。その一つがロゴマークの公募。活動をイメージするロゴマークを一般公募し、道内在住の女性の案が採用された。利尻山と利尻の海が伝える物語が表現されている。
また、11月には利尻町で北海道遺産選定1周年を記念し「利尻産業遺産フォーラム」が開催され、エコミュージアムの取組みについて紹介した他、ニシン漁が行われていた当時を知る方が昔の話を披露したり、島の女性たちが利尻ならではの昔から伝わる食文化の話をしたり、改めて利尻島を振り返り、考える貴重な機会となった。
今年度はその他漁業遺産である袋澗の一つにニシン漁が行われていた当時の様子を再現したイラストや昔の写真を用いた案内板を設置したり、島の玄関口であるフェリーターミナルで利尻の漁業遺産を紹介するパネル展を行う予定となっている。
利尻島は最後までニシン漁が行われていたため、袋澗を始めとし、当時の道具など形として残っているものも多く、また、ニシン漁が行われていたころの様子を知る年配の方も多い。そういう意味では貴重な遺産がまだ良い形で残されているのが利尻の現在の状況であり、「利尻しまじゅうエコミュージアム」を中心とした取組みが広がって、島全体として産業遺産の保全活用が進んでいくことが期待されている。

利尻島を象徴する利尻山は日本百名山の一つとしても知られる

島の4つの地区と利尻山を組み合わせた「利尻しまじゅうエコミュージアム」のロゴマーク

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