「美人すぎるから大成はのぞめないと思うが、初めてのことでもあり、ためしに」。北星女学校(北星学園の前身)で数学、物理、化学、体育を教えていた加藤セチが、北海道帝国大学農科大学(現・北海道大学)への入学を希望した際、検討を重ねた教授会の見解は、こんなレベルだったらしい。戦前、日本の教育制度は女性が大学に進学することを全く想定しておらず、東京帝国大学では、法制上はもちろん、理念的にも、女性の入学を一切拒否していた。東北帝国大学理科大学が、3人の女性の入学を認めたのが1913(大正2)年、日本初のことだ。
その5年後、東北帝国大学農科大学は北海道帝国大学農科大学として独立し、佐藤昌介が初代総長に就任。同年4月から北星に勤めていたセチは、夏休みに遊びに来た東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の後輩たちを北大見学に連れて行った。その際、佐藤総長が「北大は女子に門戸を閉ざしていない」と語ったことに感激し、セチは「もっと深く学びたい」と、すぐに入学を願い出た。
札幌農学校一期生である佐藤昌介はクラークから直接教育を受けており、かねてより「北海道の開拓には、キリスト教スピリットと教養を身につける女子教育が必要である」と説いていた。1887(明治20)年、米国人宣教師サラ・C・スミスが札幌に女学校を創立する際も、顧問を引き受けて草創期を支えるなど、女子教育を援助してきた人物である。
佐藤総長は、さっそく教授7人を委員に指名し、女性の入学を検討させた。ところが、セチに対して教授会は「学力が足りない」という理由で入学を反対した。というのも、当時の東京女高師は女子の最高学府であっても、中学に毛の生えた程度の学力しか身につけられなかった。入学を認めても、男子の学力についていけないだろうと危惧したのだ。検討会は2回開かれたが結果は同じ。セチは憤慨し、「学力が足りないのは、私のせいではない。教育制度が悪いからだ。女性にも大学の門戸を開くべき」と強く抗議した。その熱意に大学側は根負けし、1918(大正7)年9月、3回目の検討会で正規学生と同様に講義と研究指導を受けられる「全科選科生」として入学を認めた。
北大に入学してセチが学んだのは、1年目は土壌学、肥料学、農学実習など11科目、2年目は作物学、園芸学、農学経済学など8科目、3年目は農業製造学、農史など6科目。北大農学部の同窓会が発行する『札幌同窓会誌 第2号』には、「待望の講義に出てみると、てんでペンが走らない。英語ばかりの経済学、各国の原語が飛び込んでくる動物生理の講義にはポカンとすることが多く、毎日ノートの整理と語学の勉強に追われていた」など、入学当初のセチのようすが綴られている。大変ではあるが、毎日が新鮮で、楽しくてしかたがなかった。そこには、紋切り型の知識を詰め込むような教育にはない魅力があふれていたのだろう。「学問とは三次元の厚みを持ち、生き生きと躍動して止むことのない姿」という言葉からも、その感動が伝わってくる。
北大の学生と北星高女の教師生活の両立を想像すると、人並みならぬ努力と苦労があったに違いない。ひっつめ髪を振り乱しながら、キャンパス内を足早に駆け抜ける袴姿は、かなり目立つ存在だったはずだ。のちにセチは「仲がいいと誤解されるので、実験室で男子学生と話をしたことはない」と語っているが、困っている学生を見かけたら自分のペンやノートを差し出すほど気さくな人柄。少し庄内なまりのある愛嬌たっぷりの丸顔は、いつもにこにこしているので、みんなから「おせっちゃん」と親しまれていたという。
北大に残るセチの履歴書には「北三条西三の一 道祖土(さいど)寅吉方」が下宿先になっている。当時、北星女学校は北4条西1丁目にあったので、通勤通学に便利な場所だ。北星の『同窓會々誌 第十二號』には、生き生きと活躍するセチに刺激を受けた卒業生の文があり、職員住所録には「札幌北七條西三丁目 前川徳次郎方 加藤節」と記載されている。さらに通いやすく勉学にふさわしい下宿先へ引っ越したのかもしれない。北大農学部の同窓会誌には「植物園で性の決定と栄養との関係を研究して居られた前川徳次郎先生の優れた着眼の中に研究への足がかりを教えられた気がする」と、セチの一文が残されている。
セチの親戚であり、国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構の科学者でもある加藤祐輔さんに確認すると「セチは、北大造園学の教室で、星野勇三教授の研究室に属し、卒論まで書いています。星野が前川宅への下宿を紹介したとすれば、よく付合します」。
北星女学校に勤務しながら、セチは3年後の1921(大正10)年に全科を修了。北大修了論文は、英文論文「The effect of dry condition upon the germination of apple seeds.(林檎の種子発芽に対する乾燥の影響)」(農学研究院図書室所蔵)。選科生であるため、農学士の称号はもらえなかったが、短期間で論文を仕上げた俊敏な能力が認められ、北大修了後、農学部農芸化学研究室の副手として一年ほど働いた。
同年、セチは建築家の佐藤得三郎と結婚。二人とも庄内出身で、セチが地元の狩川小学校に教師として勤務していた頃に知り合った。姉のフミが嫁ぎ、加藤家を存続させるために「長男ではないのだから、私と結婚して加藤家の養子になってほしい」とプロポーズした。
アインシュタイン博士が来日した1922(大正11)年、セチは東京の理化学研究所に勤め、女性研究者第1号となった。当初は化学分析の研究室に配属されるが、量子力学に興味を持つようになり、物理系の研究室で分光学を学ぶようになった。実験を見るうちに、吸収スペクトルを化学分析に応用するアイデアが生まれた。分光器で吸収スペクトルを測定すれば、試料中の物質の性質や量を破壊することなく調べることができる。セチは倉庫にある有機化合物を次から次へと溶液にし、根気よく吸収スペクトルを測定し、化学構造との関連を検討し続けた。
1931(昭和6)年、京大理学部の小松茂教授に勧められ、博士論文「アセチレンの重合」を提出。保井コノ(植物学)、黒田チカ(有機化学)に続いて、日本で3番目の女性理学博士の学位を受けることができた。北大を修了して10年、38歳のことである。
研究室で日曜も祭日もなく実験を続けるセチであったが、他の女性理学博士と違うところは、結婚して2児の母親だったことだ。理研に入所した年に長男仁一、2年後に長女コウを出産。産休制度もない時代に、夫の理解や同居していた継母キンの支えが、どれほど大きかったことか。
セチとキンの関係は、想像以上に深い。1893(明治26)年、山形の豪農に生まれたセチだが、大地震で母や兄、姉、生家も失い、15歳の時に父も病死した。その後、継母キンと姉妹で生きる覚悟をし、小学校の教師になった。ところが、上京して自活したキンから「東京ヘ出て勉強なさい。人間は若い時にできるだけ勉強して置かないと、後で必ず後悔するときがくるから」と繰り返し手紙が届く。キンの存在がなければ、東京女高師で学び直すことも、札幌の女学校に勤めながら北大をめざす道も、結婚しても研究者として働き続けることも、考えなかったかもしれない。
第二次世界大戦中、理研はさまざまな分野で戦争に協力せざるを得なかった。セチも内閣戦時研究員として航空燃料の研究を行った。また、肺炎などの感染症治療薬として発見された抗生物質ペニシリンの研究にも携わった。硫黄島で戦死した仁一のコートを身につけながら、どんな思いで研究者の道を貫き通したのだろうか。セチは「敗戦により研究の自主性を失いかけていた研究所で、再び出発点に立ち戻って生物化学の方向に目を転じ、意欲的に研究を続けられたのは、北大時代に授けられた学問への感激があったから」と同窓会誌に書き残している。
家庭人として野菜を買うときも必ず産地を確認し、その特徴を生かした使い方を見極める。「台所の片隅にも、エプロンに包まれた野菜にも科学はある」と考えたのが、加藤セチという研究者だった。
<参考資料>
理化学研究所「女性初の主任研究員“加藤セチ”」
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