1985(昭和60)年10月、篠路コミュニティセンターの落成記念式典で、住民によって再現された「篠路歌舞伎」。51年ぶりのステージは、熱気と興奮のうちに幕を閉じ、大評判となった。
「せっかく復活した篠路歌舞伎を後世に残したい」と、翌1986(昭和61)年12月に発足したのが「篠路歌舞伎保存会」だ。上演団体「ほてから座」のメンバーが中心となり、会長は、座長として舞台に立った柳沢正幸さんだった。
現在、保存会の5代目会長を務める大髙英男さんは、元札幌市職員。篠路出張所に勤務していたこともあるそうだが、意外にも「篠路歌舞伎のことはよく知らず、興味もありませんでした」。
歌舞伎とがっぷり四つに向き合ったのは、早期退職し、シルバーボランティアとして派遣されたモンゴルの大学教授時代。日本の文化芸能である歌舞伎を教えることになり、異国の地で「見得」や「ニラミ」を特訓。生徒の前で披露したのが、原体験だという。
帰国し、新たに居を構えた篠路で町内会活動に参加するうち、「篠路歌舞伎保存会」の3代目会長を当時務めていた宮崎恒雄さんから誘われ、気軽な気持ちで入会したのが2013(平成25)年のこと。「最初はよくわからなかった」というが、会長職を頼まれ、受け取った大量の資料を読むうち、目を開かされた。「こんな素晴らしい地域文化があったんだ!これは大変な役を仰せつかったと身が引き締まる思いでした」と大髙さんは振り返る。
以来、講演活動や資料本の作成などに奔走。奮闘の甲斐あって、会長就任時25人ほどだった会員は今や90人超。大髙さんは「同じ北区の『新琴似歌舞伎』とともに札幌市の無形文化財の指定を目指したい」と目標を掲げる。
さて、篠路歌舞伎が51年ぶりに復活した1985(昭和60)年、もう一つ節目となる出来事があった。篠路コミュニティセンターでの復活公演を見た篠路中央保育園の職員が、オリジナル歌舞伎「保育園五人女」の創作に挑戦。同園創立30周年式典の祝賀会で上演し、拍手喝采を浴びたのだ。
当初は抵抗感もあった職員もいたそうだが、ステージに上がってみれば「感動したね!」と思いが一致。検討の末、保育園の年長児カリキュラムに歌舞伎を組み込み、秋のおゆうぎ会で発表することになったのだ。その名も「篠路子ども歌舞伎」。1986(昭和61)年から現在まで毎年続けられ、今や篠路地域の名物行事として人気を集めているから、ご存じの方もおられるだろう。
「動いたり、走ったりするのが大好きな子どもたちが、一年の間に『動かない』『人の目を見てセリフを言う』などの約束事を守れるようになります。舞台に立っている時は、役者の表情になるんです」と顔をほころばせるのは、篠路中央保育園の林茂子園長だ。創立30周年式典の時は「口上」を担当し、「子ども歌舞伎」のスタートから関わる。
林園長によると、「子ども歌舞伎」の練習は園児が年長さんに進級した春から始まる。といっても、すぐに役決めやセリフ練習はしない。まずは篠路コミュニティセンターの展示コーナーや「花岡義信之碑」など、篠路歌舞伎ゆかりの場所を散歩がてら巡って意識づけ。興味を高めたところで、卒園児の公演映像を見せ、「やってみたい!」という思いを持ってもらってから、外部講師も交えた役決めなどに進むという。「みんなが主役だよ、というメッセージを大切にしています」と林園長はモットーを語る。
発表の場は、篠路地域の文化祭(10月頃)、保育園のおゆうぎ会、後輩への伝承式(年明け1~2月)と、年に3回用意。「1回目は緊張で顔が引きつっていた子どもたちも、2回目になると少し落ち着き、最後はもう堂々とした演技で感動します。演技が楽しくなり、『これで終わり?』『またやりたい!』といった声も飛び出すんです」
コロナに見舞われた2020、2021年は文化祭が中止となり、2022年の参加も見送った。練習もこれまで通りには進まないけれど、年明けの「伝承式」だけは、観覧者の人数を制限するなどして継続している。「年長さんの大切な経験として、思い出に残る形でこれからも続けていきたいです」と林園長は力を込める。
時同じくして「保存会」と「子ども歌舞伎」が動き出し、新たに生まれ変わった篠路歌舞伎。これは、単なる偶然なのだろうか。
ここで再び、篠路歌舞伎を研究する北星学園大学の高橋克依教授にご登場願おう。
「篠路歌舞伎の座長だった大沼三四郎は、とにかく『人』を大事にされていた方でした。これが端的に分かるのは、歌舞伎引退後なのです」
実は大沼三四郎、「花岡義信」を引退して13年後となる1947(昭和22)年、なんと篠路村の村長に! 戦後初の民選初代村長として働き、札幌市との合併(1955年)に尽力したという。合併年に発刊された「篠路村史」の冒頭、大沼村長は「刊行の辞」としてこう記している。
篠路村は勿論金持村ではないが、世間で思う程の貧乏村ではない。ただ弱小なので大町村に伸びきれない。だからなんとかして大きくなりたいといつも考えていた。
「なんとかして大きくなりたい」という率直な言葉に、篠路村への思いがあふれている。ところで意外なのは、この「篠路村史」の中で、篠路歌舞伎については一切触れられていないのだ。想像するに、大沼にとって篠路歌舞伎とは、趣味の延長や自慢話ではなく、切実な「村づくり」の一環だったのではないだろうか。
高橋教授によると、歌舞伎引退後の大沼は、まず村会議員として社会福祉活動に貢献。「篠路村が『母子愛育村』に指定されたのも成果の一つです」と教えてくれた。
「母子愛育村」とは、昭和初期、皇太子ご生誕を期に、乳児死亡率の低下や女性の保健知識の取得、母子の健康づくりを目的として創設された母子愛育会が進めた取り組みのこと。そして、こうした村の社会福祉を支えたもう一人の立役者が、奇しくも、件の引退興行の年に村にやってきた林賢治なる人物だという。
「村医だった林賢治はその後、札幌市合併の年に保育所を開設します」という高橋教授の言葉に、私は思わず声を上げた。そう、林賢治こそ、後に「篠路子ども歌舞伎」を行うことになる篠路中央保育園の創設者。現園長の実父だったのだ。
村存続のため篠路歌舞伎に励み、さらには村長として村発展に尽くした大沼三四郎。
大沼の右腕となって村の福祉充実に身を捧げ、村で最初の保育所を開設した林賢治。
篠路村とともに歩んだ2人の思いは、やがて「篠路子ども歌舞伎」となって、今を生きる子どもたちに受け継がれている。
林賢治の偉大さに昨年たどり着いたという高橋教授はこう語る。「篠路歌舞伎が50年ぶりに突然、子ども歌舞伎として復活したというのは違います。大沼と林の想いが、半世紀の間まるでセミの幼虫のように地中で成長し、『子ども歌舞伎』となって羽化した。出るべくして出た、という印象を強くしています」
篠路歌舞伎保存会を発足させた柳沢正幸さんも、2人の志を受け継いだ一人だ。
元祖・篠路歌舞伎の目撃者であり、「父(林賢治)が一番信頼していた」(林園長)という経緯から、篠路中央保育園の2代目理事長を歴任。「篠路の歴史をたくさん話して聞かせてくれました」と林園長は懐かしむ。
保存会の現会長・大髙さんも、柳沢さんと面識がある。「篠路出張所長時代、柳沢さんはよく会いに来て、私に篠路歌舞伎の面白さや歴史を語ってくれていました。でも当時の自分は『大変でしたね』と聞き流す程度。本当に申し訳なかった」と振り返る。亡き柳沢さんへの詫びも原動力に大髙さんは今、「子ども歌舞伎を応援しつつ、たとえば数年後、今度は私たち保存会の会員が歌舞伎を実演したい」と夢を膨らませている。
高齢化に後継者不足、娯楽の多様化。そしてコロナが私たちにさまざまな変化を促す中、民俗芸能の継承・保存には課題が山積と言わざるを得ない。そもそも、篠路生まれ・篠路育ちの住民が少なくなる中、「篠路」というエリア限定の地歌舞伎の価値をどう伝えていけば良いのだろうか。そこで私は、取材を通して出会った言葉の数々を思い出す。
「篠路歌舞伎を継承してきた、篠路というコミュニティーの魅力は強烈だ!」(高橋教授)
「苦難の歴史、今では想像できないほどの苦しみの中で生まれた篠路歌舞伎、先人の思いに頭が下がります」(大髙会長)
「篠路歌舞伎という素晴らしい文化のある町に来た子どもたちに、何か伝えたい」(林園長)
「開村以来百年の歴史を有つ(※原文ママ)篠路村も、旬日を出でずしてこの地上から永遠に消え去る。それを思うと感無量の思いがする。先人が村造りに捧げつくした苦心と努力が空しく消え去るような寂しさも感じられるが、しかしそれは永久に消え去るものではなく、札幌市の中で脈々と生き貫くものである。」(大沼三四郎村長、「篠路村史」より)
歌舞伎の名台詞に勝るとも劣らない熱量のこもった言葉たちが、私にこうささやいてくる。
篠路歌舞伎をめぐるワンダーなクロニクルは、まだまだ続くよ、と。
札幌市北区公式サイト「伝統文化の伝承活動」
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