一着の北東アジア史。

蝦夷錦(えぞにしき)

写真提供/市立函館博物館

写真提供/市立函館博物館

龍の文様が織り込まれた清朝の絹製の官服、「山丹服」。本州では「蝦夷錦」とも呼ばれた。

北海道最初の銀行である第百十三国立銀行を創設した函館の豪商杉浦嘉七(1843-1923)が、市立函館博物館の源流である開拓使函館仮博物場の開場(1879年)のさいに寄贈したもの。
杉浦は、明治維新の動乱を果敢に乗り切り家業の福島屋(漁業請負業)の近代化に成功して、函館区の初代区議会議長、函館商工会の初代会頭なども務めた名士だ。

蝦夷錦(山丹服)とは、清朝高官の上質な官服だ。江戸時代、清朝は黒龍江(アムール川)下流右岸のデレンに夏のあいだ出先機関を設けて、ウリチ、ニブフ、オロチなど北方諸民族の朝貢(ちょうこう)を受けていた。北方民族たちは、一定の土地の自治が認められることと引き換えに高価なテンなどの毛皮を清に献上することが義務づけられ、それらに対する恩賜(おんし)として官服などの衣服や絹製品、ガラス玉などの装身具などが与えられた。
北方民族はこれを今度は樺太のアイヌとの交易品に使い、アイヌは彼らに和人由来の鉄製品や米、酒などをもたらした。これが山丹交易とよばれる、沿海州(ロシア極東部)と樺太、そして蝦夷地と本州を結ぶ壮大なモノの流れだ。

本州以南の服飾文化とはまったく異なる華麗な色彩文様をもった蝦夷錦は、松前藩にとって貴重な資源だった。蝦夷錦は幕府をはじめ本州の大名たちに大いに珍重された。幕府は蝦夷地を直轄すると、この交易を松前藩に代わって自らの管理下に置くことになる。

アイヌ民族を通して蝦夷地と大陸が深く結ばれ、その太いネットワークは本州にも伸びていた。それこそが蝦夷地のダイナミックな近世史だ。

谷口雅春-text

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