ロシア文化とアイヌ文化の交差。

パラライキ

写真提供/市立函館博物館

写真提供/市立函館博物館

三角形のボディに三本の弦を張ったロシアの楽器バラライカを元にした、千島(クリル)アイヌの楽器。

1886(明治19)年1月。北海道の行政機構はそれまでの3県(函館県、札幌県、根室県)の体制をあらため、今日につながる北海道庁が設置された。その年の10月、函館区海岸町で北海道物産共進会が開かれる。開拓の成果を示しながらさらなる産業振興をめざした恒例の催しで、前年には根室で開かれていた。
このパラライキは、北千島に暮らしていたクリルアイヌが博覧会に出品するために、自作のものを持ち込んだもの。アイヌの人々はバラライカを、転訛させてパラライキと呼んでいた

ロシア起源の楽器を、なぜ北千島のアイヌが自作していたのだろう。その背景には、北東アジア史の深い亀裂が走っている。

18世紀中葉以降、千島のラッコ資源に着目したロシアは、千島列島への植民と開発を急いでいた。
一方でこの島々には、古くからアイヌ民族(クリルアイヌ)が先住していた。クリルアイヌはロシア人との関わりが深まると、しだいにロシア化が進むことになる。こうした事態に危機感を抱いた幕府老中の田沼意次は蝦夷地と千島に調査隊(近藤重蔵・最上徳内ら)を派遣したが、調査隊は千島で、ロシア正教を信仰するアイヌにも出会っていたのだった。

ロシア人との交わりが進む中で、クリルアイヌたちは、島に持ち込まれたロシアの楽器をも深く受け入れた。だからこそ自らの文化を体現する逸品として、博覧会にパラライキを出展したのだ。
民族文化に単純な原点や純粋性を求めることの不合理を、あらためて考えさせられる。共同体の生命力を高めていくのは、こうしたダイナミズムなのだろう。

他方で、パラライキを出展したクリルアイヌたちは、悲惨な歴史の嵐に襲われてきた人々だ。1875(明治8)年、日露間で千島樺太交換条約が締結された。それまでエトロフ島・ウルップ島間に設けられていた日露国境がカムチャツカ半島南端と千島列島最北端のシュムシュ島のあいだとなり、千島列島全域が日本領となる(樺太全域はロシア領に)。そして元来北部千島に居住していたクリルアイヌには、日露いずれかの国籍を選択することが求められたのだ。

日本側は、日本国籍を選べばそのままの土地で暮らせると持ちかけ、アイヌたちは日本国籍を選んだ。しかし、物流にも多大なコストがかかるし、そもそもロシアとの国境近くにロシア文化を受容したクリルアイヌを住まわせておくわけにはいかない、という声が政府内で強くなる。クリルアイヌはやがて1884(明治17)年、千島列島の最南端で歯舞群島や根室半島に近い色丹島に強制移住させられたのだった。その数97名。
一連の政策に通訳として深く関わったのが、函館県御用係でロシア語通訳の小島倉太郎。小島は通訳の任にとどまらず、色丹島でのアイヌの生活安定に心を尽くした。

彼らは函館での北海道物産共進会に、移住を強いられた色丹島からこのパラライキや杓子(しゃくし)などの木工芸品、そして自ら育てたジャガイモを持ち込んだ。

千島樺太交換条約をめぐっては、これに先立つ1875(明治8)年、樺太でも日本への移住(石狩川中流の対雁・ついしかり)を一方的に強いられた800名以上のアイヌ民族がいた。

谷口雅春-text