当別トラピスト修道院の歴史は、1896(明治29)年の秋、フランスから数人の修道士が上磯(現・北斗市)の原野に仮修道院を建てたことにはじまる。プーリエの来日はその翌年。
プーリエは日本に溶け込もうと先頭に立って開墾に打ち込み、酪農の基盤も整えた。当初は日本人の信者は4人しかいなかったがそのうちのひとり、大工の岡田初太郎の養子となり、岡田普理衛と改名。祈りと労働の日々のなかで日本人になろうとした修院長だった。
考古学や地質学にも造詣が深く、北海道の化石や岩石、世界各地の鉱物など約2千点にのぼるコレクションがあった。
しかし1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦で母国から修道院への送金が止まり、戦後の不況もあって愛蔵コレクションを手放したらしい。この標本は岡田健蔵が作った市立函館図書館の地学室に納められていたが、1966(昭和41)年に現在の市立博物館が開館したさいに、移管された。
普理衛にちなむ挿話として名高いのが、詩人三木露風との交友だ。1915(大正4)年と17年、三木は修道院を訪れて岡田修院長の信仰にふれて感銘を受けた。そして教師の任を引き受け、1920年から24年まで、「トラピスト学園」で修道士たちに文学論や美術論を指導した。その間普理衛の司式で妻なか子とともに洗礼を受けている。三木の詩に山田耕筰が曲をつけた唱歌「野薔薇」は、渡島当別の丘に咲くハマナスをモチーフにしたと言われている。
明治30年代に普理衛がフランスから輸入した乳牛が源流になっているトラピスト・バターやトラピスト・クッキーは、いまも函館土産の定番だ。
谷口雅春-text