「新天地」と交わるための一歩。

液漬標本

(ニシン・サンマ・ヨウジウオ)

写真提供/市立函館博物館

左からニシン・サンマ・ヨウジウオ
写真提供/市立函館博物館

文学者で戦後の北海道大学に赴任した風巻景次郎は、北海道の自然はどのような万葉古今以来の短歌の技法によっても定着させることのできないものだ、と書いている。まして幕末から明治に海峡の南から北海道に渡ってきた人々にとって、北海道の自然環境には未知のものが数え切れないほどあったことだろう。

開拓使は、北海道の開拓を進めるために、北海道の自然環境や物産に関する情報を道民に広く周知させる必要があると考えた。
そこで、南九州で西南戦争の激しい戦火が広がった1877(明治10)年、開拓使函館支庁は「奇獣珍魚其他怪異ノ動植物ヲ獲ル物ハ之ヲ保存シ後勧業係へ届出」るよう住民に呼びかけた。水鳥獣虫魚木土石の類で見慣れないものを見つけたら採集して持参してほしい、というわけだ。
これを受けて人々は、ヒグマやキツネをはじめとした獣、野鳥、マンボウなどの魚類、さらにはさまざまな鉱物などを持ち込む。当時の新聞によれば、双頭のクマや角のあるネコといった「奇獣」もたびたび寄せられたという。開拓使は、その中から北海道に特徴的なものを選んで標本にしていった。

市立函館博物館の源流となった開拓使函館仮博物場は、こうした資料を集めて1879(明治12)年に開場した。人口3万人あまり(当時北海道最大)のまち函館で、初年度は約4万2千人もの入場を数えたという。市立函館博物館発行の『はこだて博物史』(2002年)は人々と博物場との出会いを、「見たことのない『珍奇・珍品』に満ちた博物場という不思議な玉手箱との出会いだったのかもしれません」と書いている。

谷口雅春-text