「霧に包まれたロマンの街」に変貌
斉藤康子・一道塾塾生
北海道東部の太平洋沿岸に位置する釧路は背後に湿原を擁し、街の面積は国内第6位を誇る。駅を出て目の前にある北大通りを南へ約900メートル真っ直ぐ進むと、北海道三大名橋のひとつ、幣舞橋がある。欄干には春夏秋冬を表す4体の乙女の像が飾られており、日の入り前には多くの市民や観光客が足を止めて海に沈む夕日を眺める。
この街を舞台に原田康子の小説『挽歌』は生まれた。800枚の長編小説は、1955(昭和30)年6月から翌1956(昭和31)年7月まで釧路で発行されたガリ版刷りワラ半紙の同人誌『北海文学』に10回連載された。連載終了後に東京の出版社から単行本として刊行されると、たちまちのうちに70万部を超す空前の大ベストセラーになった。地方の無名新人が伊藤整など、文壇の大家たちから惜しみない賛辞を送られ、全国的な同人誌ブームを呼ぶ。
不倫が現在以上にタブーとされていた時代に妻子ある男性との恋愛、そしてその妻の自殺という衝撃的な内容は日本中にセンセーションを巻き起こした。
『挽歌』のヒロイン兵藤怜子は、病弱のために旧制女学校を中退し、結核性の関節硬直で左ひじが不自由という障害を抱えている。彼女の家は祖父の代までは富裕だったが今は没落し、生活力の無い父親、大学受験生の弟、母親代わりのばあやの4人で暮らしている。怜子は普段はほとんど人と付き合わず、地元の素人劇団の美術部で裏方の仕事をしながら気ままに暮らす数え年22才の女性である。
彼女はふとしたことから妻子ある中年の建築技士・桂木節雄と出会い、桂木の夫人あき子と若い医学生とが恋愛関係であることを知る。怜子は桂木に「コキュ」(妻を寝取られた男)という言葉を投げつけ、自分の妻が不倫をしていることをすでに知っていた桂木の心の傷をえぐる。怜子の投じた残酷な一石のせいで、平静を装って暮らしていた桂木家の家庭生活にひびが入っていく。
「わたしが憎いでしょ?」とわたしはふるえる声で訊いた。
「憎い?」と彼は反問し、
「ぼくは今夜君を連れ出そうと考えていた」
おどろいてわたしは泣き止んだ。
「君はどうなんだ?」と彼は雑誌を閉じて立ち上がった。
「君が来なかったら、街中さがしまわってね、君を摑まえようと思っていた」
怜子は桂木のジープに乗り、近くの温泉宿で2夜を過ごす。ふたりの恋が始まった。
怜子は桂木と付き合いながら、一方では夫人・あき子の優しさと美しさにも魅かれていくのだが、やがて姉のように、母のように彼女を慕うようになっていった。ある日、怜子は桂木との関係を自らあき子に打ち明け、同時にあき子への思いも告白する。
「わたしの気持ちわかんないの」
桂木夫人は睫を伏せて運ばれてきたコーヒーをすすった。
「わたしがママンも好きだってこと、信じないの?」
このことをわたしは桂木夫人に信じて貰わねば我慢できないような気がした。しかしわたしは、わたしと桂木夫人をここまで追いつめた原因は、まさしくわたしが桂木夫人に魅かれたからだと気づいて色を失った。
夫だけでなく、自分をも愛するという矛盾に満ちた告白にあき子は追い詰められていき、霧の深い夜に自らの命を絶ってしまう。亡くなったあき子の胸元には怜子からプレゼントされたネックレスが輝いていた。
あき子の死から3か月後、怜子は偶然桂木と再会するが、夫人のデスマスクが頭から離れない彼女は桂木との別れを決意する。こうしてふたりの恋は終わった。
この物語が書かれてから約60年たつ今も、幣舞橋からは怜子が見た時と同じように夕日が美しく眺められる。
海霧の影響を受けて暗い印象だった釧路を『挽歌』は怜子と桂木との物語にふさわしく「霧にむせぶロマンの街」に変貌させた。夏でも冷涼な街で、この残酷なまでに一途な愛は燃焼し、黄金色に染まる海面のきらめきの中、夕日とともに水平線の向こうに吸い込まれるように沈んでいったのかもしれない。