打ち捨てられた開拓民の悲哀
北国諒星・一道塾塾生
作家開高健は、1959(昭和34)年頃から翌年にかけて、大雪山の麓にある開拓村へ季節ごとに取材に行き長期間滞在した。付近には戦後、東京、大阪などからかなりの入植者が入ったが、この取材のとき開高は村の生活の厳しさに度肝をぬかれたという。
こうした苦労の末、1960(昭和35)年12月、小説『ロビンソンの末裔』(角川文庫)を発表した。
敗戦前日の1945(昭和20)年8月14日、空襲と食糧難に疲れた「私」は東京都庁をやめ、妻子を連れて北海道開拓団の一員として上野駅を発つ。汽車には様々な職種の人たちで溢れ“難民の混成部隊”のようだ。
青森で一泊。翌朝貨客船に乗り、津軽海峡を渡るが、船内で敗戦の玉音放送が流れた。案内の指導員が、興奮しながら戦争が終わったことを告げたあと、少し言葉を切って黙ってから、次のように言った。
「本船は」といいました。「本船はうごいております。青森にはもどりません」
否応なしに一行は戦時開拓民から戦後開拓民となり、函館で釧路、北見、旭川の3方向の組に分けられる。
「私」と妻子は汽車で旭川からさらに奥の小さな町へ着く。町役場で説明を聞くが、東京で聞いてきた条件に変わりはないかと質問すると明確な答えがない。クジで当たった土地(「上開部落」)に着くと、熊笹と灌木林があるばかりだった。
「父ちゃん!……」首まで熊笹につかって、おぼれそうになりながら、女房が呼びました。ふりかえると、眉がふるえ(中略)眼は真っ暗でした。
東京を出るとき聞いてきた条件はどれもこれもウソだったが、「私」たちは拝み小屋を作り、朝早くから畑に出て働く。ここではただ働いて食べて眠るしかなく、働くことをやめると、たちまち熊笹に襲われる。夜の恐ろしさもここで初めて知った。
こうして未開地と格闘しながら、「私」は同じ開拓民の「畳屋」といっしょに“生存”をかけて旭川の支庁や札幌の道庁、さらには東京の政府や国会にまで陳情するがらちがあかない。
時が流れて今、この上開部落にはきれいな道がついており、熊笹の林は畑になった。しかし、入植当時からの人間で残っているのは、元警官と「私」たちだけだ。
冬と夏と石ころだけの土があるきりです。死にはしないが、まったく生きていけません。来年はジャガイモを少し植えてみようかと思っています。
小説の舞台の「上開部落」は、特定はできないが、上川町にある数地区の開拓部落を総合して設定したものと思われる。
北海道は明治以来、幾度も本州などからの移民を受け入れて来たが、終戦前後にも、多数の都市罹災者や海外からの引揚者の受け皿となった。彼らは「拓北農兵隊」(終戦後は「拓北農兵団」)と呼ばれ、原野開拓に挑んだが、そこは寒さや酸性土のため、なんの作物も実らない不毛の地だった。加えて終戦直後のどさくさの中、応募条件とは全く違う現実が待ち受けていて、ほとんどが離農に追いやられていく。
開高はこの作品で、シラミのような開拓民の存在を戯画的に、かつ軽妙な皮肉を含ませる一方で、その原始生活を生命力豊かに描き出している。
ロビンソン・クルーソーは無人島に流れ着き、独力で畑を開墾し、野生の山羊を家畜として生活を切り開いていくのだが、開高はその再現を、北海道の戦後開拓の中に見出して、このタイトルを付けたのだろう、という文芸評論家佐々木基一の見解(角川文庫初版の解説)にはうなずけるものがある。