文学と職業のはざまで
池咲ゆきの/一道塾塾生
『若い詩人の肖像』は伊藤整の小樽での青年期の自伝的小説である。諸雑誌に掲載されたものを、後に長編小説としてまとめた。
伊藤整は文学好きな内向的な学生だった。小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)に入学した整は、とりわけ詩の創作にふける日々をおくっていた。
私はひっそりとして、誰にも気づかれずに、詩と自分の間にもっと確かなつながりを作り出したいと思った。そして私は、放課後や、休講の時間には、この学校の主屋から崖縁の方につき出た建物の端にある静かな図書館へ通うようになった。そこの窓からは、眼の下にひろがった町と海が見え、長い突堤に抱かれた水面には汽船がいつも五六隻浮かんでいた。
文学に関心を寄せる学生たちは、自らの小説や歌、詩を寄稿し、雑誌を作っていた。整も友となった川崎昇と『青空』という雑誌を復刊させ、詩を書いた。だが、この頃の整の詩の創作は、あくまで趣味の範疇だった。
世に目立たない何か地味な職業を持って、ただ一冊の、自分でナットクのできる詩集をこの世に残そう。そして誰かが後になって、……なかなかいい詩を書いているが、いまどこで何をしているのだろう、と考えることがあれば、それでいい。私がそれを知らなくっても。
ところが、その想いはやがて詩壇で席を得たいという情熱へ変貌する。商業高校を卒業し、小樽近郊の中学の英語教員となった整は、本州での形式ばかりの研修会に送り込まれた際に、疑問を抱く。
私の前で居眠りをしているどこかの中学教員の白い上着の襟が汚れて摺り切れ、耳のあたりに蠅が一匹飛んだり、とまったりしている。そういうものが目に入る時、私は人生というものが、こんなものの連続なのだ、という感じがした。無意味な形式や礼儀を守って、面白くもない話に耳を傾けているという生命の空費の時間が、私をやりきれない気持にさせた。そして、こんな人生には生きる意味が何かあるだろうか……こんな無意味な厭わしいものの連続が、四十年も五十年も続くとしたら、そんな生活の中で生きつづけることは愚劣なことではないのか?
整は仕事のかたわら詩集を出版し、また雑誌への投稿等により東京の詩壇と接触をはじめ、上京を考える。そのために小樽での仕事を辞める口実として、東京の経済大学の試験を受け、合格した。
23歳の春、詩人になろうと意気揚々、上京を待つ整だったが、思わぬ事態が発生する。病気がちだった父が、いよいよ床に臥せってしまったのだ。そして義兄は整に、大学行きをとりやめ、英語教員を続けた方がいいのではないか、と進言する。整は独立した生活をしていたが、実家は決して楽な暮らし向きではなかったのだ。
私はいま、病んで失業し、家を人手に渡した五十八歳の父と幼い弟や妹たちを棄て、自分で働いて得た金を自分だけが使うという計算を立てながら上京するのである。
文学を志す者、文学に限らず夢や将来について、青年期に誰もが一度は直面する情熱や欲望、その障害や葛藤が等身大で描かれている。時代は大正から昭和初期であるが、今の若者が共感する部分も大いにあるであろう。
小樽市街から小樽商科大学へと延びる大学通りは「地獄坂」と呼ばれ、1.5kmの急勾配が続く。正門へとたどり着く頃には、息は弾み、汗がとめどもなく流れる。さらに厳冬期ともなれば、まともに風雪が吹きつけ、凍てつく坂道は危険極まりないものだったろう。時代は移りゆくが、若者たちは昔も今も夢や希望を抱き、悩みながら、この坂道を一歩一歩、踏みしめ歩いているのだろう。