死んで花実が咲いた作家
斉藤康子/一道塾塾生
津軽海峡に面し、函館山から東へのびる大森海岸の中ほどに、石川啄木像が建つ「啄木小公園」がある。ここはかつて付近一帯に砂山が広がっていて、砂の盛り上がる「大盛り」から名付けられた。砂山にはハマナスが咲き、美しい景観が広がっていた。
この地域には、砂山に穴を掘って半穴居生活をする貧しい人々の掘立て小屋が建ち並び、「サムライ部落」「砂山部落」と呼ばれていた。1956(昭和31)年、大森浜を横断する国道278号が開通したことで掘立て小屋は立ち退きを迫られ、現在当時の面影はない。
『そこのみて光輝く』の主人公佐藤達夫は、長年勤めていた造船所を辞め、職探しもせずにパチンコ屋に入り浸り、大城拓児という男と知り合う。拓児は大森のバラック小屋の自宅に達夫を連れて行くが、そこにいた彼の姉、千夏と出会い、恋に落ちる。
寝たきりの父親と介護に明け暮れる母親、正業に就いていない拓児。そんな家族を支えるために千夏が夜の商売に加えて「客をとって」生計を立てていることを知る。
子供の頃には近づかなかった。どの家でも犬の皮を剥ぎ、物を盗み、廃品回収業者や浮浪者の溜り場で、世の中の最低の人間といかがわしい生活があると聞かされていた。
この集落で生まれ育ち、離婚歴もある千夏と人生を共にすることを達夫は決意する。さまざまな状況から推して、千夏と一緒になればとんでもない苦労を背負い込むのは必至なのだ。なのに彼はそういう道を選択し、千夏の元夫と対峙する。
「千夏は、自由だ。あんたのでしゃばる幕じゃない」
「今頃、千夏が誰を相手にして、どんな商売をしているのか知っているのか」
達夫は頷いた。
「それなら、わかるだろ。千夏にきいたか。あの女はな、あんたさんみたいな男には向かないんだ。まともな生活なんかできるはずがないんだ」
「残念だけど、俺もそうまともじゃなくてね」
達夫はいった。男の頬がひきつるのが見えた。
千夏が今までいた世界と縁を切るために、達夫は相手にどんなに殴られても一切抵抗せずにいた。そうすることが千夏と拓児をどん底から救い、光輝く場所へ導くことであるかのように。
寝たきりの義父が亡くなった後、夫婦になったふたりにナオという娘が授かる。小さなアパートでの平穏な日々が続き、それなりに幸福な家庭を作る。
東京で出稼ぎをしていた拓児が戻り、達夫は一山当てようと水晶を掘りに一緒に鉱山に入ることを持ちかけられるが、山に入る日を待っている間に拓児は千夏とナオを侮辱した男にナイフで切り付けて重傷を負わせ、拘置される。
ひとりで鉱山に入ることを決めた達夫は、留守中、千夏の母を呼び寄せて千夏やナオと一緒に暮らすよう説得するが、母はバラック小屋の自宅で拓児の帰りを待つ、と申し出を断るのだった。千夏たち家族にとっての安息の場所はやはりこの集落だったのだろう。
佐藤は高校卒業後、上京して進学、その後に家庭を持ち「書くことの重さ」と向き合いながら創作活動に励む。だが、次女が生まれる1984(昭和59)年頃からアルコールと睡眠剤の併用による自律神経失調症を患い、自殺未遂や入退院を繰り返す。
1985(昭和60)年に『そこのみて光輝く』が『文藝』に掲載された後、1989(昭和64)年、続編ともいえる書き下ろしのエピソード『滴る陽のしずくにも』を加えた作品が刊行され、第2回三島由紀夫賞候補になった。
1990(平成2)年、佐藤は自宅近くの植木畑で自死した。上京してから20年あまり、41歳という、あまりにも生き急いだ生涯だった。
佐藤の死後、20年以上たってから『そこのみて光輝く』が映画化されたが、試写を見終わった妻は「死んじゃあおしまいと言うけれど、死んで花実が咲く人もいるんだねぇ」と、しみじみ語ったという。
中学2年の文集に「夢は芥川賞を取ること」と書いたほど強くあこがれていた佐藤だったが、五度もノミネートされながらかなわなかった。
全作品は絶版になっていたが、2007(平成19)年、死後17年経って『佐藤泰志作品集』が発刊される。『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』『オーバー・フェンス』の映画化、ドキュメンタリー映画『書くことの重さ』も公開された。作品が復刊し、再評価が進み、改めて注目を浴びている。佐藤の思いが報われたと信じたい。