厚田村と祖父梅谷十次郎の陰影
北国諒星/一道塾塾生
箱館戦争の敗残者、江戸の侍が、蝦夷石狩の厚田の村に、ひっそりと暮らしていた。
作家子母澤寛の短編小説『厚田日記』は、こういう書き出しで始まる。
箱館戦争で敗れた旧幕府脱走軍の兵士たちのうち、斎藤鉄太郎、宮川愛之助、福島直次郎ら7人が、厚田に落ち延びて来た。
それから1年半の間に、常見善次郎と益山鍋次郎の2人が脱走して行方不明になり、一番若い戸谷丑之助は肺を病んで漁場の網小屋で死亡する。
残された斎藤ら4人は、戸谷の棺桶を村の北の丘に運び、拾い集めた枯れ木で掩って、火を入れた。
ごうーっという不気味な音がして、はじめは煙が白く、それが薄紫色に変って、ぱっと真っ紅な焔になった。その焔と煙の中に糸のように痩せ細ったうしろ向きの丑之助の姿が朦朧と浮かんでいる気がした。
「おい、戸谷」
斎藤鉄太郎が思わず叫んだ。宮川愛之助も、福島直次郎も、平井枝次郎も、顔をおおって、その辺にころがるようにうっ伏した。
その後、斎藤らは、戸谷を荼毘(だび)に付したときのやるせない気持を抱えながら、ぼんやりと過ごす。
冬になり、斎藤の家の炉端に4人が集まると、話題は自然に、これからどう生きていくかの話になる。
福島と宮川は、死んで厚田の土になっても悔いはないといい、若い平井は斎藤の意見にしたがいたいという。斎藤は本心をいうよう迫られると、
「若しおのし達が江戸へけえると仰せなら、おれがたった一人で、アイヌ人達の仲間に入れて貰って、草を敷きその上へ蓆のあの小屋へ一緒に住み、病気になったら枕元にイナウとかいう柳の木で拵えた御幣をたてて介抱をして貰って死ぬ気でいたよ。」
と打ち明けた。斎藤は名も戒名もなく、石を丘に置いて貰っただけで死んでいく気だったのだ。ただ、平井に対しては、自分の真似をせず、江戸に帰れと勧めるのだが、平井はここで皆と運命をともにしたいという。
そんなとき、新任の開拓使大判官松本十郎(庄内藩出身)が巡視で厚田に来て、斎藤を見かけると声をかけてくる。二人は若い頃、江戸の剣術道場で同門だったのだ。
松本は二日間厚田に滞在し、寝るのも惜しんで斎藤と語り明かした。札幌へ戻った松本判官からは、食べきれないほどの米や味噌が届くが、斎藤は手元に一粒も残さずアイヌたちに配った。
のちに、松本判官からの手紙で開拓使への仕官を勧められるが固辞し、若い平井枝次郎を代わりに送り出す。
時を経て、松本は樺太アイヌの問題をめぐり開拓長官黒田清隆と対立、職を辞して庄内に帰郷していく。平井も開拓使を辞めて厚田に帰る。
この物語は、アイヌ総乙名から依頼された一人娘の祝言の仲人を斎藤が引き受けるかどうか、仲間と炉端で和やかに話し合う場面で終わっている。
著者の子母澤寛は明治25(1892)年、厚田に生まれ、本名を梅谷松太郎といった。生後、突然、父伊平が行方不明となり、母イシも幼い寛を置き去りにして男と駆け落ちしてしまう。
寛は祖父梅谷十次郎夫妻に引き取られ、その子供として育てられた。祖父十次郎はこの小説で登場する「斎藤鉄太郎」のモデルとなった人で、かつては彰義隊に参加、箱館戦争も戦い、敗れて厚田に流れ住んだ。寛はここで祖父の溺愛を受け、その膝の上で回顧談を聞かせられながら成長した。
作家になった寛は、昭和36(1961)年、69歳になってこの『厚田日記』を書いた。『厚田日記』は、同じ年の作品『南に向いた丘』とともに、前年発表した『蝦夷物語』の続編ともいえるもので、厚田での彰義隊生き残りの暮らしを描いている。
今、寛の故郷厚田の町を見下ろす公園の高台に立ち、『厚田日記』の冒頭の一節を刻んだ「子母沢寛文学碑」を見ると、祖父十次郎に対する思慕の情、著者の胸にあった鎮魂の思いが胸に迫ってくる思いがする。