詩人の住むべき恋人達の郷
「札幌」は、啄木には数少ない小説の一つだ。将来的には小説家を本業と考えていた。
東京在住時の亡くなる直前に、懐古して書き残した小説である。
1907(明治40)年5月、啄木は、職と活躍の場を求め来道する。だが、8月25日の函館大火で、勤めていた小学校と新聞社が焼失し、啄木の言う「ああ数年のうちこの地にありては、再興の見込みなし」の状況となった。
友人に履歴書を送り、札幌の新聞社から推薦が来る。9月13日、独り汽車に乗り込んだ。汽車は、小樽から札幌へと向かう。
車輪を洗うばかりにひたひたと波の寄せている神威古たんの海岸を過ぎると、銭函駅に着く。汽車はそれからまっしぐらに石狩の平原に進んだ。
未見の境を旅するといふ感じはひしひしと私の胸に迫って来た。(中略)かくして北海道の奥深く入っていくのだ。
未開の地に踏み込んで行くとの覚悟と同時に、将来への期待で胸が膨らんでもいた。
札幌駅で友人に出迎えられた満21歳の啄木は、背丈五尺三寸(約159cm)の羽織袴姿、坊主刈りで、小型鞄一つのみ。
改札口から広場に出ると、私は一寸停って見たい様に思った。道幅の莫迦に広い停車場通りの、両側のアカシアの並木は、蕭条たる秋の雨に遠く遠く煙っている。其下を往来する人の歩みは皆静かだ。男も女もしめやかな恋を抱いて歩いてる様にみえる。
友人は言う。この通りは僕らがアカシア街と呼ぶのだ。あそこに大きい煉瓦造りが見える。あれは、五号館というのだ。五号館とは、旧五番館のことだ。
「好い!何時までも住んでいたい」啄木は、思わず頷いた。
その友人の下宿先である駅北口の北7条西4丁目の田中サト宅(現札幌クレストビル)に間借りする。田中家には、二人の娘がいた。
北星女学校を卒業したばかりの18歳の長女の久子と13歳の次女の英子である。久子は、当時では珍しいスイートピーの花を花瓶にさして、賛美歌を歌い針仕事をする女性だ。東京の洗練された女性でなく、しかし、岩手の封建的な女性でもない「札幌の女性」を久子に感じ取り、啄木は、淡い好意を抱いた。
早速、札幌の散策を始める。
札幌の秋の夜はしめやかであった。通り少なき広い街路は森閑として(中略)街路に生えた丈低い芝草に露が光り、虫が鳴いていた。(中略)
あの大きい田舎町めいた、道幅の広い、物静かな、木立の多い、洋風まがいの家屋の離れ離れに列んだーそしてどんな大きい建物も見涯のつかぬ大空に圧しつけられている様な、石狩平原の中央の都の光景は、ややもすると私の目に浮かんで来て、優しい伯母かなんぞの様に心を惹引ける。
当時の北海道は、多くの新聞社が設立され、また淘汰された激動期である。啄木は、北4条西2丁目の現在の東急デパートの北側にあった北門新報社に、月給15円の校正係として採用される。ライバルの北鳴新報に、4歳年長の野口雨情が記者として働いていた。
同業者の紹介で、二人は出会う。新しく創業する小樽日報で働かないかとの誘いだ。啄木と雨情は意気投合した。啄木にとり、月給20円の三面記者待遇は、悪い話ではない。札幌を去る決心をした。
去る前に、札幌の印象を、北門新報社の「秋風記」に記事として書き残した。
札幌はまことに美しき北の都なり。初めて見たる我が喜びは何にか例えむ。アカシアの並木を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ。
札幌は秋風の国なり、木立の市なり。おほらかに静かにして人の香よりは樹の香こそ勝りたれ。しめやかなる恋の多くありそうなる郷なり、詩人の住むべき都会なり。
ほぼ無人の原野から開拓が始まり40年目と、移住民たちの生活にはまだ余裕がなく、殺伐とした札幌であったが、啄木は、その町を「恋の多くありそうな郷、詩人の住むべき都会なり」と感じた。今まで彼が住んでいた都市とは明らかに違う印象を受けた。そして、啄木の「札幌」は、後世の人々の心に、「明治時代の札幌」の情景として刻まれていく。即ち、啄木独特の詩人的感覚で、文学的な価値を初めてこの都市に与えたのだ。
その後、札幌は大きく変貌していき、人口200万人の大都会となる。有名な大通公園の啄木の銅像の他に、札幌駅北口の雑然としたビル街の片隅に下宿跡の場所がある。そこには、啄木の胸像がひっそりと立っている。