再生の地、ふるさと札幌
鶴代の熱心な働きぶりは、伊住家の人々に気にいられた。次郎に寄せる気持ちは日毎に募ってゆき、次郎も鶴代に好意を持つ。しかし、高級官僚と貧しい農民の娘という身分の違いは、乗り越えることのできない壁であった。
開拓使官有物払下げ事件に関連して、黒田清隆長官を非難した伊住は、開拓使を追われる。没落した伊住家から暇を出された鶴代は、次郎の幸福を願い、そして次郎を忘れるために、たった一度、時を共に過ごす。
鶴代は怒っているのでも、すねているのでもなかった。彼女の愛情は、ある意味で一方的であった。与えるばかりで、受け取ることを予期していない。あるいは断念してしまっている、まったくの献身であり、無償の行為であった。深く、広く、まじりけがなかった。
逃げるようにして身を引いた鶴代は、次郎の子供、明子を生む。鶴代と次郎の関係を承知の上で、壮太は鶴代と結婚する。明子を育て、一人息子の壮太郎も生まれた。明子は女学校を卒業する寸前、大通公園の雪の上で犯されて、雪子を出産する。下宿屋をしていた鶴代は自分の子供として、雪子を育てる。
東京で幸せな家庭を築いていた明子は、関東大震災で亡くなった。そして、日中戦争から太平洋戦争へと時代は進む中で、鶴代の周りの人々は次々と死んでゆく。東京の空襲で雪子も死ぬ。雪子の子供、和子10歳と真人6歳の二人の子供だけが、鶴代に残された。
「三人で北海道へ帰るのさ。札幌ってところはね、真人のお父ちゃんやお母ちゃんが育ったところなんだよ。これからは、お前たち、和子も真人もそこで、お父ちゃんやお母ちゃんと同じように育つのさ。おばあちゃんも、お前たちと一緒に、もういっぺん出直しだ」
鶴代は、次郎を知り、壮太と結ばれて壮太郎を授かり、明子を育て、明子の子供の雪子や直記や小鶴を育ててきた、長い年月を思い眩暈がしそうだった。そして、今は誰ひとりとしてこの世にはいない。だが、明治・大正・昭和と激動の時代を生き抜いてきた77歳の鶴代は、過酷な運命に負けなかった。幼い和子と真人の二人を連れて、故郷である北海道札幌へ帰ってゆく。
『石狩平野』は3000枚にもなる原稿で、上下二巻からなる船山馨の大作である。上巻は明治の、鶴代を取り巻く沢山の生命が生まれた時代を、下巻は鶴代の縁の生命が失われてゆく、大正・昭和の戦争の時代を描いている。鶴代は、船山の祖母がモデルであり、鶴代の強く生きる姿は祖母に重なる。
船山の人生は不遇の連続であった。船山は札幌の大通西8丁目の、祖母が営む素人下宿屋で生まれた。父は札幌農学校の学生で下宿人であった。船山は庶子であり、父親とは生涯に一度しか会っていない。16歳の母は姉とされ、両親の愛情を知らずに祖母に育てられた。子供の頃から生活費を稼ぐために、唐黍を焼いて売った。札幌二中時代に、キリスト教、文学、マルクス主義と出会い、生きてゆくための精神的支柱を見出した。一年上の彫刻家、佐藤忠良とは生涯にわたる友人であった。生まれ育った街、人に出会い人を憎んだ街、船山は故郷札幌をこよなく愛した。
『石狩平野』の舞台は札幌であり、最後に主人公鶴代が帰るのも、札幌である。札幌は、石狩平野開墾の始まりの地である。