伊達邦直家臣たちの苦難の歴史を描く
明治4(1871)年、旧仙台藩岩ノ山(岩出山)領主伊達邦夷(伊達邦直)の家臣たちは、いったんシップ(石狩市厚田区聚富)に入植したものの、作物が全く実らない荒れ地だった。
小説『石狩川』は、困り果てた家老の阿賀妻謙(吾妻謙)らが、トウベツ(当別町)の調査に向かうところから書き出されている。
トウベツ付近で、一行の玉目三郎と案内人一人は、別れて川下に向かい、イシカリ川(石狩川)にたどり着く。丸木舟を見つけて漕ぎ出すが、自然の猛威の前に一命を失う。
水に浮かぶと、川は限りもない広さであった。流れは一棹押して離れるごとにもりもり逞しくなった。飛沫(ひまつ)をあげて流れる巨木が、おもい重量と、いきおいづいた加速度でまっすぐに奔(はし)っていた。偶然がその舟と衝突させたのであろう―しぶきがちらちらと見え、ふいに何もかも消えてしまった。
明治維新で、岩ノ山領主の禄高は1万5千石から65石に削減され、家臣760人余は家族ともども、路傍に投げ出された。
彼らは昨日まで敵だった新政府に頭を下げて、北海道に活路を求めたが、与えられたシップから当別への移住を決意する。
先遣隊が当別に辿り着くと、そこには巨大なオンコが木葉を密生させて、すっくと原野を睥睨(へいげい)していた。まもなく一族が移住する時が来て、一画を取り払った位置に主君が到着し、白髪の和田清祐が抱えてきた小祠(しょうし)はオンコ樹のもとに安置された。
切り開かれたその路(みち)には、あかるい光りが溢(あふ)れていたのだ。何よりも無邪気に、すッと愁眉(しゅうび)をひらいたのはおんなどもであった。(中略)男たちは行く先々に見透(みとお)しを持った。(中略)うむれた朽葉の下で、ほのぼのとした温かみをたたえている厚い腐蝕土を、「これはなかなかー」と自分にうなずき、口のなかで云った。「聞きしにまさるよい土地でござるよ」
小説では、河川との闘いのほか、開拓地をめぐる開拓使の堀盛(掘基)大主典(さかん)らとの折衝なども、精巧な叙述によって描いている。
札幌駅からJR札沼線に乗ると、約40分で石狩当別駅に着く。小説『石狩川』の作者・本庄陸男は、そのひとつ前の石狩太美駅に近いビトエ番外地で、旧佐賀藩士の父一興と母ハヤの六男一女の末っ子に生まれた。
幼い頃一家は破産し北見の開墾地に移住。睦男は小学校代用教員などを経て青山師範学校で学ぶうちに、文学に傾倒する。
小学校教員をつとめながら作品を発表、社会主義や教員組合運動などにもかかわっていく。昭和4(1929)年、警察に拘留され教員を免職になるが、同7年には共産党に入党、プロレタリア文学運動で活躍する。
この間、妻清子を亡くし、亡妻の妹たま子と再婚、昭和12(1937)年夏頃、健康を損ねて静養のため北海道に戻る。
翌年9月から作品の前半を同人誌『槐(えんじゅ)』に連載するが、病(肺結核)が悪化。どうにか後半を書き上げ、昭和14(1939)年5月、単行本として刊行(大観堂)したが、7月23日、東京・杉並の自宅で病没した。享年34。
この小説は死期迫る中で精魂を傾けて書いた大作だが、本庄自身はあとがきに「石狩川の興亡史を書きたいと念願し」「半世紀に埋もれたわれらの父祖の思いを覗いてみようとした」と記し、二部、三部と書き続ける構想を持っていた。
その意味で、正確には「未完の大作」である。
いま、生誕地・当別町太美の石狩川河畔に立つと、高見順の揮毫による文学碑「石狩川」が、我々に何かを語りかけて来るようである。