昇華させた青春への思い
著者渡辺淳一が昭和48年(1973)に発表した『阿寒に果つ』は、故郷北海道を舞台にし、自身の青春、初恋の人に長年抱いていた思いを事実に基づいて形にしたものである。著者の青春時代、中心都市札幌市ですらまだ喧騒も少ないころだった。
新学校制度に伴い共学となった高校2年、俊一のクラスに純子がいた。女流画家として地方都市札幌で名を知られ、髪を赤く染め、目が大きく病弱で色白の純子はひときわ目立っていた。
突然純子から、「誕生日を祝ってあげる」と手紙で場所を指定され、俊一は駅前通りの薄野(すすきの)の交差点手前にある喫茶店「ミレット」で待つ。
ベレーをかぶり、赤いコートのポケットに両手をつっ込んだまま、純子は夜の街がうつるガラスのドアを押して入ってきた。(中略)
「今日は明子さんと逢うんじゃなかったの?」(中略)
「いいえ…」
「じゃ、よかったわ」
純子は私が園部明子に好意を抱いていることまで知っていたらしい、私は純子が底知れぬ女に思えた。
その店は、純子の絵画の師浦部や新聞記者の村木ら文化人がたむろする場所だった。大人の男性たちの存在に気付いても、俊一は純子を愛していく。放課後遅く学校の図書館部員室でふたりきりで会い、手紙をやり取りし、街を歩く。しかし、3年生になり、やがて純子は俊一から去った。
若いころ札幌にいた村木は、純子の実姉蘭子と付き合っていた。プレイボーイの村木に近づき、純子も村木と関係を持つが、蘭子の上京が決まると純子も村木に別れを告げる。姉妹の複雑で特別な関係もうかがわせながら、推理小説のように読者を引き込んで行く。
純子の最後の恋人は左翼活動家の殿村だった。潜入先の釧路市郊外の村で無免許の医療行為が摘発され、釧路刑務所に収監された殿村に工面した保釈金を届け、純子はその後に阿寒へ向かった。
「今朝、釧路についてそれからまっすぐここに来たの(中略)これから阿寒に行ってみようかと思って」
「こんな雪に?(中略)止したほうがいい。まっすぐ札幌へ帰って待っていてくれ」
「待ってるけど、でも行ってみるの」
純子はそういうと小さく笑った。
俊一は、最後に当時よく似ていると言われた姉蘭子と会う。「才能のないものはむざむざと生き残り、こんなに醜くなって」と現れた普通の中年女性。だが話す表情は純子によく似ていた。
「あの人、天才少女だといわれ、美しいといわれ、小悪魔だといわれ、それにいちいち応えて、疲れ果てたのかもしれません」
蘭子は自分でも疲れたように一つ大きく息をついた。(中略)
「でも、あの人が本当に好きだったのは自分一人」
「一人…」と私は同じようにつぶやいた。
純子は誰のものでもないが、純子と共有した確かな感情があった。そして話をした全員が、同じように思っている。
赤いコートの18歳の少女は、白い冬に阿寒湖に向かい、雑木林の中でアドルムをあおり倒れた。人里を離れ圧倒的な自然の静寂に包まれて、短く駆け抜けた生はそのまま凍結した。