明治時代最大の贋作事件と熊坂長庵
3月末のある雨の日に、安田は樺戸行刑資料館へタクシーでやって来た。資料館の展示物を見ていると、少し経って神岡と伊田も入ってきた。今はなくなったが、当時の資料館では、訪問客のために7分程度の館内放送を流していた。この放送の内容に納得のいかない伊田は、資料館の職員に猛烈な抗議をした。
「やめろ、やめろ。あれほど云ってもわからぬか!」
これは男のナマの怒声であった。
「熊坂長庵先生は、絶対に贋札犯人ではない。立派な教育界の先覚者だ。贋札犯人にさせられたのは無実の罪だ。明治藩閥政府の陰謀だ。あれほど手紙で再三云ってやっているのに、まだこんな嘘をテープで流している。(中略)もう、そのテープから熊坂先生の部分を削れ、改めて吹き込み直せ!」
かねてより、独自に贋札事件を推理する安田と熊坂長庵冤罪説を主張する伊田は神岡と三人で、「藤田組贋札事件」のあらましや、当時の薩長の権力闘争をおりこませながら、なぜ熊坂が犯人になったのか、真犯人は誰なのかを、様々な仮説を立てて推理をする。その中で安田は、井上馨(後の初代外務大臣)の次の点に注目する。
「世外井上公伝」(第二巻)によると、(明治)九年十二月に井上はクリスマスの季節を利用してドイツに遊ぶこととし、二十四日にロンドンを発ってベルリンに赴いた。(中略)
井上の伝記には、「青木(周蔵)はその頃独逸の一貴婦人と婚姻を希望して頻りに我が政府と交渉中であったが、公(井上)もそれについて相談を受けた」とあるのみである。しかしこれがドイツにおける井上の全行動になっている。
このドイツでの井上の不可解な行動が疑われたため、井上が贋札事件の黒幕と噂になった。当時の日本の紙幣はドイツのナウマン社の技術力なしでは、印刷できなかった。もちろん、個人で作れるものでもない。閉館まで長い時間かけて3人は事件の真相に迫ったが、これといった確証は得られなかった。しかし、最後に伊田はこのように言った。
「贋札造りの経路がどうあろうと、長庵先生に無関係だという結論に満足します。これまでもそう確信しとりましたが、今日に安田さんのきわめて綿密なご調査による科学的なお話によって、それがますます明確になりました。ありがたいことです。」
それから、ひと月後、安田の元に神岡からの分厚い封筒が送られてきた。なんと、この手紙の中で、安田も伊田も想像もつかなかった事件の真相が語られていたのだ。
松本清張は1980(昭和55)年5月6日に当資料館を訪れた。清張も小説に出てくる伊田と同様、福岡出身である。また、樺戸集治監の初代典獄の月形潔は福岡士族出身である。そのようなことから、清張自身も事件への関心もあり、さらに冤罪説を強く考えていた。不運にも平安時代の野盗熊坂長範と一字違いのために、贋札事件の濡れ衣を着せられた気の毒な人物ということで、この短編小説を通じて熊坂の無罪を訴えたかった模様だ。翌年の2月に「オール讀物」にて発表。しかし、作品発表後も熊坂に対しての無罪を求める再審請求裁判が行われた形跡はない。問題の贋札は日銀に保存されていないばかりか、今後、見つかるかどうか不明である。
熊坂は今も「ニセ札をつくった謎の画家」として紹介されている。獄中で描いた「観音像」の他に「かに」、「ざくろ」、「梅花女人の図」の四点が展示されている。熊坂の収監中より冤罪説が囁かれていたものの、現在も資料館では熊坂長庵を事件の冤罪という認識はない。