60年安保闘争の道産子全学連委員長
唐牛健太郎は、1937(昭和12)年2月11日に函館市で、父は小幡鑑三、母は唐牛きよとの間に生まれた庶子であった。高校まで地元の函館で過ごし、1956(昭和31)年4月、北海道大学教養部(文類)に入学する。しかし、7月に休学して上京。印刷工場に勤めながら、第二次砂川闘争に参加。翌年の4月に復学後、北大全学中央委員会委員長に就任。その後「北大に唐牛あり」という評判が全学連の幹部に伝わり、1959(昭和34)年6月に全学連委員長に就任する。この時期、日米安全保障条約の改定が迫っており、大学生を中心に安保闘争が繰り広げられていた。1960(昭和35)年4月26日に、国会突入のデモ(4.26事件)を指揮した唐牛は、はげしいアジ演説をした。
「諸君!自民党の背後には一握りの資本家がいるに過ぎない。しかし、我々の背後には安保改定に反対する数百万の学生、労働者がいる。
装甲車の後ろには警官隊たちによって辛うじて埋められた真空があるだけである。恐れることは何もない。装甲車を乗り越えて国会に突入しよう!」
これがきっかけで、学生たちが警官たちの渦の中に突入した。この一件で逮捕。北大は、教養部在籍期間を超えたため除籍。6月19日に新日米安保条約が自然承認された。11月に保釈されて、翌年の7月に全学連委員長を辞任。それからまもなく、学生運動から身を引いた。1963(昭和38)年7月、東京高裁で懲役10カ月の実刑が確定。上告することなく、服役した。
11月に出所。(実際の刑務所生活は3~4カ月であった。服役期間に関する詳細は不明。)学生運動で有名になったために、様々な人物が待ち受けていた。服役前に出会った、戦後最大のフィクサーと言われた同郷の田中清玄の会社に入社。だが、数年で退職してヨットレーサーの堀江謙一と共に、マリンショップを設立する。その際、三代目山口組組長の田岡一雄から金銭的に援助してもらったが、経営がうまくいかず退職。1968(昭和43)年、東京の新橋に居酒屋「石狩」を開店するが、一年数カ月で閉店。その後、与論島へ夫婦で移り住む。折しも、東大紛争の真最中であり、島内にいる唐牛も公安調査庁から監視対象者される。北海道へ戻り厚岸や紋別で漁師をするが、漁師として漁船に乗ってはいたものの、主な仕事は飯炊きと雑用だった。当時の事情を知っている、唐牛の紋別の知人はこのように語った。
「つぶしはきかんさ、そんな。大体ふつう、船主だって乗せないよ。危ないし、素人だしさ」
(中略)
「大体、紋別に来た頃、30半ばだろ。そこから一本立ちの漁師になるのはやっぱり無理さ。」
紋別では仲間もいたが、敵も多かった。しかし、漁師の仕事は黙々とこなしていた。唐牛は、「六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー」の著者であり親友の西部邁に、このように語った。
「船の上で、凶暴な漁師が中学を出たばかりのがきを苛めるんだなあ。俺がそのがきをかばえば、喧嘩になり、港につけば喧嘩の延長戦さ。五分も殴り合えば、こっちも年だから疲れはてて、ぶっ倒されて踏んづけられて、鼻血がだらだら、気を失いながらパトカーがピーポーピーポーと近づいてくるのをきいてると、パトカーのサイレンてのはきれいなもんだぜ」
その漁師の仕事も200海里問題の減船で辞めることになり、市川市に移住しオフコンのセールスマンとなる。売り込みの時に知り合った「不随の病院王」の異名を持つ徳田虎雄と出会い、医療法人徳洲会グループの活動に参加。1982(昭和57)年5月、札幌徳洲会病院の設立の基礎固めをした。さらに、喜界島で徳田の選挙参謀となった。この後、社会福祉法人の仕事をやるつもりで考えていたが、1984(昭和59)年3月4日に直腸癌で死去。享年47。
通夜は、和やかな酒飲みの宴会であった。しかし、酔った勢いで参列者の間で、殴り合いの大喧嘩が始まり、喪主の真喜子夫人が止める騒ぎになった。翌日の密葬の最中に震度4の地震があり、祭壇の蝋燭が倒れて火事になるのでは、と思うほど大きく揺れた。
参列者たちは唐牛は最後まで世間を騒がす男だな、と囁き合った。
本葬には、紋別から喜界島まで、全国から弔問客が集まった。(中略)
夫の藤本敏夫が唐牛と交流のあった関係で、夫人の加藤登紀子が途中から駆けつけて「知床旅情」を歌うと、参列者全員から嗚咽の声が洩れた。
平成と令和の世を通して、東西冷戦の崩壊に伴い日本の政治経済や世界情勢は目まぐるしく変化した。2015(平成27)年9月30日に、平和安全法制が成立して自衛隊の海外派遣が大幅に認められるようになった。墓は、生まれ故郷の函館にある。命日の時には、墓地の近くで参列者が酒盛りをして追悼する。かつての学生運動の同志や唐牛の支援者たちをはじめ、主義主張にかかわらず党派を超えて、多くの人たちが彼の墓を訪れる。