清張が抱く大いなる疑惑
昭和二十七年一月二十一日の午後七時半ごろのことである。札幌市内を蔽った雪は、暮れたばかりの夜の中に黒く吸い込まれていった。南六条の西十六丁目辺りを二台の自転車が走っていたが、突然、銃声が聞こえると、その一台は雪の上に倒れた。もう一台の自転車はそのまま、三百メートルくらい進んで、やがて闇の中に消えた。
今、歩くと、電停の近くに大規模ストアもあり賑やかな住宅街だ。当時は、凍った道路に暗い街灯がちらほら見えるだけだった。それでも4人の目撃者がいる。
パーンという音を2回聞いた後、一台の自転車は西17丁目通りを南方向に消えた。雪上に倒れていた男が白鳥警部で、犯人の特徴は一瞬のことで良くわからない。
白鳥は北海道芽室町生まれ。戦中に特高警察として左翼活動を抑え、戦後、札幌市警の警備課長になると、共産党活動の監視や風紀の取り締まりにあたった。共産党の方針が武力闘争に変わると、その弾圧の元凶と恨まれる。
この夜、中央署を出た白鳥は、南4条西4丁目の薄野歓楽街のバーに立ち寄る。ここは、CIC(米軍陸軍防諜部隊)のアジトで、右翼活動家や暴力団も出入りしていた。清張は、白鳥とCICは密接な関係があったと推測する。
国警は、当時、風雲急な北海道の警備に全力を集中していた。単に日本側のみならず、アメリカのCICも、その優秀なメンバーを当時の北海道に投入していた。それは、朝鮮事変が終わった直後であり、アメリカとソ連の関係、或いは中国関係が非常に緊迫した時期であったことが背景にある。
GHQ指令により、共産党員が、それぞれの職場から大量に解雇されると不穏な事件が続く。昭和25年に朝鮮戦争が勃発すると、米軍は北海道の石炭を優先的に使用した。共産党は、輸送中の石炭貨物列車を襲撃することを企てる。この時の指揮官が、共産党札幌委員長だ。白鳥がこのような動きを抑えると、殺害予告をする多くの手紙が送られて来た。正に、札幌は日本で最も警戒が必要な地域となっていた。
警察は、白鳥殺害を当初から共産党の仕業との見方をする。この頃、警察は国と地方自治体の二重構造で、お互い反目し合うのもあり捜査は難航した。ところが、事件から4か月後、札幌の共産党員Nが、伊豆の温泉街で保護されると、捜査が一気に進む。共産党札幌委員長を含む党員OやTらが次々に逮捕され、実行犯を含む7人を殺人または幇助罪で指名手配した。
Oは委員長命令でSが2発撃ったと証言し、さらに、幌見峠で射撃訓練をした供述もあり、2年後に実地検証をする。幌見峠でTが発見した弾丸は、白鳥から摘出された弾丸の種類と一致した。
清張は、次のように推理する。
現場に落ちていた薬莢が一個であることから、犯人は、相手の心臓を一発で打ち抜く射撃のプロに違いない。目撃者は、反響した音を2発目と錯覚した。すなわち、Oは目撃者の証言を書いた新聞記事の内容をそのまま供述し、Tの見つけた弾丸も錆はなく偽装と推測する。
殺害される前、白鳥はS信用組合の不正の摘発もしていた。だが、その理事長がCICの資金源という関わりを不幸にも知らない。犯人は理事長に雇われた軍隊関係者と憶測した。
最後に清張は、もう一つの推理をしている。戦前に非合法の共産党を壊滅させた特高警察のスパイMの事だ。Mは共産党幹部になると、党員に謀略を誘導し、世間に党が悪の印象を植え付けさせたのに成功した。白鳥事件は、検察はなぜかN、O、Tら転向した党員の証言を立件の決め手にして、裁判官は彼らを執行猶予の判決で終了させる。
小説は、次の様に締め括る。
全く別なショッキングな事件が他に起きたとしても、結果的には、やはり同じ「札幌の共産党の仕業」になったであろう。(中略) 見るがいい、「白鳥事件」が起きて、北海道で最も強く、全道の中心だった札幌地区の日共地下組織は、めちゃめちゃに壊滅し去ったではないか。これこそ「白鳥事件」を起こした者が狙った効果ではなかろうか。
今でも、事件は闇の中だ。