零戦の片翼は見つかった
終戦直後の北海道の冬に、窓硝子が破れた満員電車に著者は乗った。そんな時に、寒さを和らげようと工夫している、中年男性に興味を持った。
ふと眼が会ったら、その男が半分は一人言のように、半分は私に話しかけるような調子で「戦争に敗けりゃあこんなもんだ。仕方がないや」とつぶやいた。私はちょっと可笑しくなって「だって君、これは何もアメリカの兵隊が割ったんじゃないんだよ。硝子を割ったのは皆日本人なんだろう」と言うと、その男も「そう言えばそうだね」と苦笑した。
この時、「戦争に敗けたんだから」という言葉を平気で使うことに違和感を感じた。多くの人達が、何も考えずに使うと、とんでもない錯覚に陥ってしまうと思ったからだ。
戦時中の著者は、北大で雪の結晶と人工雪の研究の他に、ニセコアンヌプリの山頂で着氷実験の観測と零戦の飛行機凍結防止の研究を行った。ニセコでの研究は、すべて軍事機密であった。終戦の翌月、実験で使用した零戦はGHQ(連合国軍最高司令部)に怪しまれないように、谷底に突き落とした。技術院が解散したので、観測所は農業物理研究所として再出発する考えであった。しかし、観測所は泥棒に荒らされ、酷い状態であった。
研究室の中は、目も当てられない始末であった。持ち運びの出来る器械類を盗んで行くのは仕方ないとして、全く不必要に窓硝子を大半壊している。大型の器械は、中の真空管だの測器だのという部分品だけを盗って行ったようである。(中略)
この山は北海道でも有名な吹雪の難所である。山頂の天地晦暝の雪嵐の中で二冬を過し、やっと研究装置を完成した助教授のI君は、手塩にかけた器械の無惨な姿を見て、ぼろぼろと涙をこぼしたそうである。
ニセコでの研究と並行して、苫小牧の飛行場で海霧の研究も行った。霧の人工消散ができる「消霧車」を開発したが、エンジンから送風機へのベルトの調達がうまくできない時に終戦となった。泥棒対策をしたにもかかわらず、ニセコの時と同様に測器類や細々とした付属品、ベルトが盗まれてしまった。盗まれたベルトは、低温研究所でも使用していたので、ニセコの研究所は完全に閉鎖せざるを得なくなった。そこで研究所を、スキーロッジに改築し、再利用を倶知安町に打診したが、戦後の財政難で拒否された。
終戦直後の食糧難や物価上昇、さらに通信の不備など様々な混乱が起こる中で、著者が月刊誌を通して次のことを警鐘した。
国民が今日において平常心を失わないことである。物質と物質との戦いの最中に精神論を強調し、今最も精神を必要としている秋に、精神を忘れているのではなかろうか。(中略)「戦争に敗けたのだから」という言葉はなるべく使わない方がよいであろう。
この主張が発表された数カ月後に、長男が11歳で病死した。この悲しみの中でも、雪の研究は続いた。海外へ渡航して、ハワイ州のマウナ・ロア山頂での雪の結晶の研究、グリーンランドでの氷冠の調査などを行った。帰国後に末期の前立腺癌に侵され、1962(昭和37)年4月に骨髄腫で死去。享年61。
著者の死から28年後の1990(平成2)年8月10日、相原秀樹起氏率いる北海道新聞取材班と北大探検部の合同調査隊が、ニセコアンヌプリの東斜面で、観測所の実験に使用された零戦の翼の一部を発見したが、回収には至らなかった。
それから13年後の2003(平成15)年7月、翼の再調査を行った。全体の状態は良好であったものの、右の翼は裏返しになり、「く」の字状に折れ曲がり、翼の桁部分と舵の羽衣は腐食が進んでいた。左の翼や胴体、エンジンは発見に至らなかった。捜索の一員である、倶知安風土館の矢吹俊男館長(当時)によると、「終戦直後は何もない時代。地元の人が持ち去り、鍋釜などに利用したのだと思う。右の翼も誰かが持ち去ろうとしたが、途中であきらめて放置されたのではないか」とのことだ。翌年6月、10人がかりで翼の引き揚げ回収に成功した。そして、風土館にて「硝子を破る者」に盗まれることのなかった翼の展示が開始された。
現在の倶知安・ニセコ地域は、パウダースノーを求めて多くの外国人観光客が注目する、世界有数の別荘地となった。平成から令和を通して戦争の記憶が薄れる中、展示に携わった矢吹氏は、「引きはがされた跡などから、ふるさとの人々の様々な思いが感じられる。平和の大切さを伝える歴史遺産として、後世に残していきたい」と述べている。さらに、風土館関係者は、見つかっていない左の翼や他の残骸の発見に期待をしている。