北の原野を拓いた若者たちの苦闘
信州上田藩士だったカネの父親・鈴木親長(ちかなが)は、維新後に東京で養蚕業を始めるが失敗し、長男・銃太郎とともにキリスト教に入信する。長女のカネは、授業料が免除になる公費生として、宣教師たちが開いた横浜の共立女学校で学んでいた。
兄の銃太郎は、伊豆の資産家の次男、依田勉三と神学校で出会った渡辺勝と会社を興して、北海道へ開拓に行くことを決める。『大器は晩成す』という言葉から社名を『晩成社』とつける。カネは、新天地に向かう兄たちを羨ましく思う。
女学校を卒業したカネは、父の勧めで渡辺勝との結婚を決意する。晩成社は「オベリベリ」という土地に入殖を決めた。もともとアイヌの言葉で、帯広という漢字を当てるという。ふとカネの頭に「チーム」という英単語が浮かぶ。兄と依田と勝は一つのチームで、一人では不可能なこともチームで乗り越える。そのチームに寄り添いながら、これからの自分は生きていくのだと決意する。
明治16(1883)年4月、結婚式の翌日に勝は、依田や晩成社開拓団27人とともに北海道に旅立った。9月、カネも父とともに北海道行きの船に乗った。
数カ月ぶりに再会した勝はマラリアを患っていた。カネが持ってきたキニーネを飲ませると、すぐに回復する。カネは他の病人にも薬を分け与える他、村の子どもたちや近くのアイヌに読み書きも教え始める。
苦労して開墾したにも関わらず、バッタの襲来や霜で、ほとんどの作物がだめになることが続く。どんな天候に見舞われても、飢えても、何度でも立ち上がり、ただひたすら日々を過ごさねばならない。これが開拓なのだとカネは痛感する。
明治19(1886)年、依田が突然、他の土地で牧畜を始めると宣言する。
「この地で生きていこうと決めたのは、依田くん、おまゃあさんでなぁあかっ。俺ら、どんな思いでこの三年を生きてきた?」(中略)
「我らは何のために『晩成社』という名前を選んだのか?」
何を言われても自分の意思を曲げない依田。3人の間に距離ができ始める。
久しぶりに開拓団メンバーが集まった夜、依田は今までの利息を精算すると言い出す。いくら窮状を訴えても聞く耳を持たない依田に村人たちの怒りが爆発する。久しぶりに酒を飲んで、酔いのまわった勝が小刀を取り出す。
「ひょいひょいと内地に帰ゃあっとる、おまゃあさんによう──ここに縛り付けられとるもんの気持ちが──分かんのかあっ!」
言うなり、勝が小刀を振り挙げた。
「俺はもう──晩成社なんか、まっぴらだぁ!」
依田に飛びかかる勝。「やっちまった!」と男たちの声。かすり傷だった依田は「今日のことは、何も見なかったことにしてくれ」と言い残し、その場を去る。
七年ぶりに会った母に心無い言葉を言われ、やるせない思いで畑仕事をするカネ。
突然、「ヘロゥ!」と外国人旅行者に声をかけられる。カネは思わず「ハロー」と応えた。
「まさかこんな場所で、英語で会話のできる人と会えるとは思っていませんでした」とそのイギリス人旅行者は言った。
ああ、天主さま。こうして贈り物を下さるのですね。
私にはこういう言葉を操る過去があった。祈りと教育にだけに向かっていた時代があった。そして、すべての経験を背負って、今、このオベリベリにいる。(中略)
これからも、わたしはこうしてオベリベリで生きていくのですね。
勝は数年後に晩成社を去り、然別(しかりべつ)を開拓する。依田は酪農やバターの製造販売など新たな事業を次々に始めるが、ことごとく失敗に終わる。しかし十勝開拓のパイオニア・晩成社の物語は、今も十勝の人々に語り継がれている。カネは、晩年まで信仰と教育に生き「帯広教育の母」と呼ばれた。