雷電海岸と後志の漁村を巡る旅
1962(昭和37)年5月のゴールデンウィークに、作者は個人秘書の芹沢嘉久子と共に雑誌「旅」の企画で、積丹半島を旅行した。
積丹は陸路でぐるりとは、めぐまれないのである。西海岸の珊内からさき、沼前のあいだが道がうまくない。土地の人さえゆききは陸路でなく、船を使って用をたしているというからには、まずよほど困難なことなのだろう。
初日は、羽田から千歳まで飛行機で飛び、バスを使い札幌へ。札幌から小沢経由で岩内までは鉄路(当時は小沢から岩内まで鉄路があった)を利用。午後3時前に岩内に到着し、老舗旅館の宇喜世旅館(現在は廃業)に入った。まだ明るかったので、岩内町職員に勧められるまま、雷電海岸へ足を運んだ。当時の雷電海岸は岩内近辺の三難所の一つであり、一昨年に岩内からの道路が開通したばかり。だが、寿都までの道はなかった。
雷電とはまた怖ろしい名である。(中略)雄大で鋭く、峨々とした岩石海岸だ。道は海の側への片方眺望で、片方は山の裾がなだれ押してきて、絶壁となって視野を塞いでいる。そしてその絶壁にはところどころ、滝がかかって変化を見せており、岬の突端には弁慶の刀掛岩が牙のように尖り立って、義経伝説を伝えている。
作者は北海タイムス(現在の北海道新聞)の記者に、雷電海岸の感想を問われ、「積丹めぐりはまったくはじめて。ただ雷電のことは話で聞いておりました。ところがきてみたら想像していたよりぐんとすばらしい。まことに男性的な力感にあふれてさすが北海道の海岸線といった感じがぴったり」と語った。
宿に戻った後、岩内町関係者による懇親会が催された。観光協会の会長が岩内弁で町の様子や、大災害(8年前の岩内大火)の復興状況を説明。さらに教育長は神仙沼、カブトライン、雷電のスライド上映し、作者は関心を示した。
二日目は、炭火の中毒で体調を崩し、午前中の予定をすべてキャンセルした。昼の1時より自動車で出発し、一路カブトラインを走った。途中で、泊村と神恵内村の助役(現在の副村長)が合流。車内で父の幸田露伴のことや、村の説明を聞きながら、海岸沿いにホリカップ川を越えて、茅沼炭鉱(現在は閉山)、泊、盃温泉、神恵内を経て赤石まで行った。珊内まで行く予定であったが、道路が不通で断念した。
来た道を引き返し、途中で泊村郵便局長宅に立ち寄った。ここで、茅沼炭鉱の地質測量をした米国人ベンジャミン・スミス・ライマンがスイスから取り寄せて、今は局長所有のオルゴールに聞き入った。作者はお礼に奉書の巻紙に、「盃という面白い地名と 昔なつかしい オルゴールの音に 何かまことに心たのしく 積古丹の旅にて 幸田文」と書いて贈った。この後、小沢駅まで車で行き列車に乗り換え、小樽に宿泊。
三日目は、列車で余市まで行った。余市は、父露伴が19歳の時に、郵便局の電信技士として最初に赴任した土地である。父の勤めていた余市町沢町郵便局の礎石は、少し残っていた。明治時代の余市は鰊漁が主力産業だったが、作者訪問時には鰊は姿を消した。このころより、竹鶴政孝が経営するニッカウヰスキーが注目されるようになった。
余市から車で、湯内鉱山(現在は閉山)、古平の禅源寺、美国、積丹岬、余別を回った。途中で、運転手の知人である古平の老漁夫宅を訪問し、お茶とオオナゴの燻製を戴き、積丹半島の旅行は無事に終わった。しかし、二日目は時間の都合で、岩内町観光課で手配した船で、海上から神威岬と積丹ブルーを見ることができず、作者の一番の心残りであった。
私は来なくなった魚が、実際恋しくなってしまった。漁夫の心はかなしい。積丹いずこにもある、或る一種のかなしみだ。
積丹半島は雄大で、荒く大きく、威圧のある岩石美。そして、深沈としたかなしみと淋しさのなかに坐っている。
この紀行文は旅行雑誌「旅」の、1962(昭和37)年7月号に発表。さらに作者の死後、娘の青木玉が編纂した、短編集「旅の手帖」第1章「旅をおもう」に収録した。
現在の後志地方の漁村は、人口が大きく減少した。泊村は漁業以外の産業の誘致から、1989(平成元)年に原子力発電の営業開始。東日本大震災の影響で泊原発が再稼働しない中で、2020(令和2)年に寿都町と神恵内村は、原発の核廃棄物文献調査誘致を表明。道内は、誘致を巡って賛否が交錯している。