母娘の35年ぶりの帰郷
明治初期に、わたしの父は伍長として野付牛村に移住し、そこで生まれ7歳まで育った。一家は、妹の死により引っ越した。それから長い年月が経ち、夏のある日に母とわたしの2人は35年ぶりに野付牛に行き、幼くして死んだ妹の墓参りをすることにした。特に母は、この墓参りには特別な思いであった。
一度はノツケウシにも行って見たい。――これはわたしたち一家の永年ののぞみでした。(中略)謂わばその旅を思うことさえが、わたしたちのあいだでは共通の美しい夢になっていたのでした。とりわけ母は、わたしたち弟妹にもないことはなかったが、誰にも増して強く、久しく貯えられていた或る願望のため、その旅行をほとんど生涯の目的にしていました。
北見屯田の一つとして形成された野付牛兵村は、1897(明治30)年5月に設置され、198戸入植した。この兵村は、喜多鑑治大尉率いる第4大隊第2中隊となり、中野付牛兵村とも呼ばれていた。さらに、和田兵村(現在の根室市)から移転してきた第4大隊本部が設置された。
わたしの生まれた時の北見は、畑地はまだ一部しか開墾が進まず、高い草や灌木、熊笹など黒い壁のような原始林が少なくなかった。10月末から降り始める雪は吹雪になると、昼夜の区別が出来なくなる。我家の家屋は、六畳と四畳半と一間の炉をきった板敷と土間があるだけの構造。食べていくだけでも大変な生活なのに、羆の心配もある。わたしにとって野付牛は、「野地(やち)と淋しい空の無限の広がり」のように感じた。
妹が不慮の死を遂げたのは、わたしが7歳の時であった。10月頃に、一本の大きな楡の木を伐採するため、父と下働きの田村さん、大隊長の馬丁でめかっち(片目の悪い人の意味)の六さんの3人で、切り落とすことになった。わたしは、母と弟と妹の4人で様子を見ていた。目の前で木が切り落とされようとする時に、妹が倒木に向かって駆け出した。
『あぶない。』
父がどなったのと、重い地ひびきを立てて樹が倒れたのは同時でした。わーッと母が泣きごえをあげました。みんな――父も、母も、六さんも、田村さんも、妹の半身だけのぞいている幹のそばへ駆けよりました。
野付牛に着き、宿へ行った。二人で風呂に入って寛ぐと、母とわたしは妹の最期の話ばかりしていた。昼食後、墓参りをするために寺を訪ねた。しかし、墓地の様子が大きく変わり、妹の埋葬場所がわからなくなった。そこで寺の住職に聞いてみたが、火事が原因で古い過去帳が焼失したため、わからないという。母もわたしも落胆は大きかったが、住職から故人のための読経の後、法話の集まりで多くの町の年寄りが集まるから、その人達から聞いてみたらどうかと言われた。法話終了後、かつての知り合いのおみよさんとおよしさんの2人に偶然出会い、久しぶりの再会を喜び合ったが、2人に聞いても墓の場所はわからないという。でも、元気そうな姿を見て、わたしも母も気を取り直した。
『これが娘の引きあわせとでも云うのでしょうねえ。あなた方にお逢いしたので、お墓の見つからないのもどうにか諦らめがつきそうですよ。』
母はついにそう云いだし、せめて宿でお茶の一つも飲んで行ってほしいと二人を誘いました。わたしたちは連れだって寺を出ようとしてみんなで知らず知らずまた墓地へ足を入れました。もういっぺん探して見ようとするより、たしかその下に埋まっているだけは間違いのない土に、最後の別れを告げるためでした。
わたしと母は小さな無縁の墓を見つけ、妹の墓だとの思いで、東京から持ってきた線香の束を供え、手を合わせた。こうして2人は、長年の目的を果たすことができた。
この作品は、1934(昭和9)年5月に改造社雑誌「文藝」に発表。数ある野上弥生子作品の中で、唯一の北海道が舞台の作品である。しかし、文中に出てくる主人公の「わたし」は、作者のことではない。臼杵市にある作者の実家の小手川家は、幕末から続く老舗の醤油製造業であり、親族から屯田兵として北海道に移住した者はいない。大分県立図書館で「野上文学読書会」を主宰している小串信正さんによると、作品を書く上で作者の野上は北見へ行っていないと思われる。おそらく、知人の体験談を聞いて、4歳の少女の悲惨な死と墓参の旅を虚構したものと推測している。