北海道民を震撼させた抗争事件
1947(昭和22)年9月10日、網走支庁(現オホーツク振興局)にある津別町の津別神社で秋祭りが行われた。午前11時、露店を出していた的屋の富沢松樹は、3人の不良朝鮮人に難癖をつけられ、殴り合いの喧嘩になった。
「ヤロー! もう我慢なんねえ!」
まわりのテキヤ連中も飛びだしてきた。
「舐めた真似しやがって!」
「もう許さんぞ。何が戦勝国だ。オレたちはてめえらに負けたんじゃねえぞ!」
口々に叫び、それまでの溜りに溜った鬱憤を晴らすように集まり出し、大変な騒ぎになった。
騒動を知った富沢の親分である出村増次が駆けつけ、その場は収まった。しかしこのことで、的屋と朝鮮人の対立が鮮明になった。さらに、騒ぎを起こした連中が北見や美幌の朝鮮人支部に電話を入れて応援を求めている情報を得た。そこで、出村と富沢は和解に向けて話し合うために、朝鮮人連盟津別支部を訪ねたが、話はまとまらなかった。
終戦直後、一部の朝鮮人が凶悪化し、全国の警察官は取締りに手を焼いた。不良朝鮮人は自分たちを「戦勝国民」と威張り散らし、日本人のことを「三等国民」と罵り、日本全国で傍若無人な振る舞いを繰り返したため、多くの日本人を震撼させた。
騒動が大きくなる中で、朝鮮人が津別に大挙して押しかけて町を焼き払い、町民を皆殺しにするという噂が広がった。的屋の中には、街中で今回の朝鮮人の横暴を大声で訴えた。その結果、的屋の考えに同調する津別町民が出てきた。そうした中、警察の面子をかけて騒動を治めようと、美幌署の司法主任が駆けつけ、町民と的屋に訴えた。
「みなさん、どうかやめてください。これ以上騒ぎを大きくしないでください」
と必死に説得にかかっていた。
だが、この司法主任のいうことに耳を貸そうという町民はほとんどいなかった。
「あんたたちが何もやってくれんから、こんなことになるんだべさ」
責任を強く感じた司法主任は、直接朝鮮人側に会って喧嘩で負傷した3名を警察が収容し、両者の代表が話し合いで解決することを了承させた。
しかし、そのような妥協案が出たにもかかわらず、朝鮮人50人ほどが数台のトラックに乗って駆けつけ、80人ほどの的屋と津別町活汲の踏切現場で対立し、一触即発の状態になった。ここでも、司法主任の川村が双方3名ずつ代表者を出して話し合うように説得した。遠巻きにした約100人の町民が見守る中、双方の話し合いがはじまった。しかし、何ら進展を見せない中で、思いもよらぬことが発生した。
突如、「ウーウーウー」というサイレンが暗がりをついて響きわたった。
津別消防団が全消防員の非常召集と町民に対する警戒のため、鳴らしたサイレンだった。
だが、そんなことはその場に居あわせた者には誰もわからなかった。
「奴等が街に火をつけたぞ!」
午後11時20分、サイレンの音に気持ちを昂ぶらせた的屋側と朝鮮人側が、乱闘になった。的屋側は、津別町民の一部も加勢して、棍棒や竹槍、鍬の柄を使って朝鮮人側を殴りつけて完全に圧倒。乱闘は30分で収まったが、朝鮮人側は死者2名と重軽傷者35名、的屋側は重軽傷6名を出した。
翌朝、的屋の親分達は乱闘参加者の中から富沢ら9名を選別して、津別巡査部長派出所に出頭させた。事態を重く見た米国占領軍北海道地区軍政部は、津別と北見の近郊の駅にMP(米国陸軍憲兵)を配置。さらに警察の要請によって、4機の米軍機を旭川飛行場(現旭川空港)から津別上空に威嚇飛行した。それを見た多くの津別町民は、震え上がった。
乱闘後の二次抗争を防ぐ為に、道内的屋の有力者である、会津家本家四代目の小高龍湖と源清田一家新谷本家の新谷藤作が事態の収拾に動いた。米国軍政部の将官の仲裁で、完全に抗争が終結。その後、的屋側と朝鮮人側の和解式は、北見警察署の会議室で行われた。
富沢ら9人は、釧路地裁網走支部で殺人罪として審議され懲役8年の判決が出たが、控訴審で傷害と傷害致死罪として懲役3年6カ月の判決を受け、札幌刑務所に服役した。
抗争の現場になった活汲の踏切付近は、1985(昭和60)年4月1日の国鉄(現JR)相生線の廃止で現在は更地になっており、事件を物語るものは何もない。