国泰寺の破戒僧が歩んだ道
文化2(1805)年、幕府はロシア勢力の南下とそれに伴うキリスト教の浸透などに備えるため、蝦夷地の3カ所(有珠、様似、厚岸)に官寺を建立することを決定した。この方針に基づき、相模国津久井郡青山村(現神奈川県相模原市緑区)の光明寺住職文翁が、厚岸に派遣されることになった。
4月19日、文翁は光明寺の末寺・三井寺(さんせいじ)住職の東岳、15歳の少年僧智弁を随行して、江戸を出立した。
文翁の将軍家葵紋入り黒塗り駕籠(かご)のほかに東岳と智弁の駕籠が2丁、寺社奉行所の馬上の侍1人と徒(かち)の番士2人(中略)本尊、経典、仏具を運ぶ荷駄12頭と人足28人、総勢40余名の晴れやかな行列で、先導する番士が「蝦夷官寺国泰寺」と大書した板札を掲げて進む。
文翁は、厚岸に着任すると国泰寺を建立し、布教活動などを行うが、番屋の荒くれ者のアイヌに対する仕打ちを知って苦悩。戒律にこだわる食生活、酷寒の気候の影響もあり、赴任後わずか5カ月で病死してしまう。
残された東岳は、文翁の死を伏せたまま役務を代行するが、翌3年4月、文翁の名で仏生会(釈迦の降誕祭)を挙行し終えると、その病死を届け出て法要を行った。そんなある日、智弁は思いを寄せていた新シャモ(アイヌと和人の混血児)の女性イソランが、女郎として売られる噂を聞き、荒くれ番人源治らに対する怒りを爆発させる。
智弁の軀(からだ)がひとりでに動いていた。絶叫しながら眼を抑えたのは、源治であった。(中略)倒れて無慚(むざん)に痙攣しつつ、かすかな呻(うめ)きをもらしたのみであった。あっけなく息絶えたのである。狼狽して家の中へ逃げ込もうとした治七郎の脛を薙(な)ぎ払った智弁は、(中略)治七郎の髪のやや薄い後頭部へ、発止と杖を振り下ろしていた。「喝(かつ)!」
2人を殺傷した智弁は、濃い霧に紛れて忽然と姿をくらます。東岳は智弁を追って必死に探し回るが、ついに果たせなかった。文翁の死から9カ月後の文化3年6月、文翁の後任者萬全が厚岸に赴任して来た。その間、破戒僧となった智弁は各地を放浪、千島列島ラショワ島ではロシア人オロマン宣教師と出会い、キリスト教伝道の実態を知るが、まもなく厚岸に戻る。
和人との混血のアイヌと偽って名もイチマツと変え、髪と髯(ひげ)をのばしアツシを着た智弁は、筋骨逞しい21歳の若者になっていた。かれはこのほぼ5年のあいだに、交易に行くアイヌたちとオロシャ領ラショワ島にまで渡り、つい半月まえクナシリ島へもどって、トマリの村で暮らしていたのである。
智弁は厚岸のコタンでイソランと所帯を持ち、平和に暮らすが、番人金蔵にイソランが犯されるという事件が起きる。復讐心に耐える智弁だったが、金蔵は鹿の罠に落ちて事故死する。文化12年(1815)、智弁は二児の父となった。
その頃、村のアイヌ五郎松が隠れ切支丹の疑いで役人に捕まる。役人たちは、今度は熊送り(イヨマンテ)の儀式中、智弁の留守宅を捜索し、彼が昔オロマン宣教師からもらった十字架を探し当て、智弁を厳しく取り調べた。
その結果、智弁は鎖国の禁を破ったうえ、官寺尊像を穢(けが)した咎(とが)により、百敲(たた)きの上、両腕に入れ墨(ずみ)をさせられ、重追放の刑に処せられた。本邦への渡海はもとより、箱館、松前、有珠、様似、十勝、釧路への立ち入りを禁じられ、厚岸場所十里四方の追放であった。
釈放された智弁は、よろめきながらも一歩一歩イソランと子供たちの待つコタンの方へ歩き出していた。
この小説は、19世紀初頭の北海道を舞台に、風土や信仰上の葛藤を描き、特にアイヌに対し、彼らの神(カムイ)を捨てさせ、仏教やキリスト教に帰依(きえ)させようとする和人やロシア人の布教に対して、強い疑問を投げかけている。文芸時評では「格調高い骨太の作品」(読売新聞記事)と高い評価を受け、新田次郎文学賞を受賞した。
道東一の古刹(こさつ)国泰寺は、今もバラサン岬に抱かれるように建ち、境内及び周辺には山門、本堂、仏舎利塔、アイヌ民族弔魂碑、最上徳内建立の神明社跡(のちの厚岸神社)などが現存。春には桜の名所として人びとを楽しませている。