脳溢血を患った父との思い出
私達家族は山下汽船(現商船三井)に勤める父の仕事の関係で、1937(昭和12)年から1944(昭和19)年までの7年間、小樽に住んでいた。その時の習慣は、毎週日曜日の朝に、親子3人で早起きして散歩することであった。
いつものように兄弟2人で、父が出てくるのを待っていたが、会社で異常事態が発生したため、散歩は中止になった。会社の部下がタクシーに乗って現れ、父は私に告げた。
「昨夜、海で会社の汽船が沈んだんだ。お父さんはそこへいかなくちゃならない」と言った。
「どこの海で」
「銭函の沖だよ」
私は幼いながら、この眼で汽船の沈んだ海を見たいという、好奇心を持っていた。そのため、車で銭函の海岸まで出かけるという父に、兄弟一緒に付いて行った。難破船の現場には多くの野次馬がいる中、私は最初、車の中から眺めていたが、父を追って現場に駆け付けた。3人の水夫の死体には覆いが被せられていたが、1人だけ見覚えのある顔があった。彼は父に招かれて西瓜を持って家にやって来た、一等運転士の「チョッサー」であった。チョッサーは同僚を助けようとして、海へ飛び込んで溺死したと、父は私に語った。この経験は私にとって、「死」と言うものを身近に感じた瞬間であった。
この出来事から数年後、父は脳溢血で倒れた。私は瀉血で洗面器一杯の血を見て、父が死ぬかもしれないと思ったが、一命を取り留めた。その後、父は酒と煙草を完全に止め、高血圧の自宅療法をするため、長期の断食をした。その内容は、水だけで10~15日間過ごすことを数回繰り返すことであった。傍で見ていた私は、子供ながらになんとも気の毒で、おぞましい気さえ感じさせられた。
「なんで断食なんかするの」
「死なないためさ」
挑むように父は答えた。(中略)
「お前たちが大きくなるまではな」
その言葉は私をどう動かしもしなかった。
1944(昭和19)年2月、一家は父の会社からの辞令に伴い、逗子に転居。翌年、父は2度目の発作で倒れた。この時も断食をしたが、父の健康状態は良くならなかった。父の体は眼底出血を伴う高血圧症で、大きな発作が最低3年以内に起きる可能性が高い状態であったため、心配をする母(光子)に父は、「俺は仕事で死ぬなら本望だ。」と言って会社を辞めなかった。
1951(昭和26)年10月、父は東京の会社で会議中に居眠りをしたまま、2時間後に嘔吐。異変に気付いた会社の同僚が医者を呼んだが、意識を回復することなく、52歳で急死した。先に会社に着いた母と弟は臨終に間に合ったが、私は学校に行っていたため、亡くなった後だった。ビルの一室で父の遺体と対面した時、小樽での出来事を思い出し、涙を流して泣いた。
父と一緒にあの北海の荒磯で見た、海に死んだ一等運転士の凍てた死顔だった。私はそれに触れはしなかったが、この瞬間、父の手の下に見たものをはっきりと思い出し、それが即ち、今見る父の死顔であると覚っていたのだ。二つの死顔の符合を証すように、私は今の瞬間のために必要な、生涯を通じての父との会話のすべてを一度に思い出していた。
父は仕事に全力的に取り組む精力的な人物であったが、その一方で、息子達には常に細やかな愛情を注いでいた。慎太郎・裕次郎兄弟が、人間の生き様、人の死について最初に父から教えられた場所こそ、小樽であった。
父の死後、筆者は少年の立場で一家の家長になり、生活が大きく変化した。弟の放蕩生活で兄弟間の争い事が増え、一家の経済状態は破綻寸前だった。
母と弟のことを考えて、筆者は公認会計士を目指すも断念。大学在学中に芥川賞を受賞したことで、作家となった。その後、政治家に転身。弟は日活映画「太陽の季節」でデビューし、映画やテレビで活躍。昭和を代表するスターとなった。
裕次郎の死から4年後の1991(平成3)年7月、小樽に「石原裕次郎記念館」がオープンした。しかし、2017(平成29)年8月31日に惜しまれて閉鎖。展示品の一部は、小樽市の博物館や図書館に寄贈された。記念館の閉館を惜しんで、JR小樽駅の4番ホームに、「石原裕次郎メモリアルオブジェ」が設置された。