出家前の釧路と根室の旅
筆者は一昨年、作家の井上光晴と知り合いになり、京都と東京で往復生活をしていた。ふと深夜、仕事場のある東京で「雪のある岬が見たい。流氷にしめつけられた岬の上に立ってみたい」と思った。そして北海道なら、雪や流氷があるかもしれないと考え、道東行きを決意した。
1968(昭和43)年3月、羽田から釧路まで飛行機を利用。釧路空港から国鉄(現JR)釧路駅まで、タクシーに乗った。運転手は、話好きの中年男性であった。
「釧路から、どこへ行かれるんですか」
「ノサップとか落石とかへいきたいんだけど、網走はだめかな、根室からだと」
「そうですね、やっぱり、一度釧路へ引きかえしてから網走へ向った方がいいですね。御商売ですか」
「ええ、まあ」
釧路へ旅行するのは、今回が3回目である。初めてやって来たのは4年前で、釧路の春採湖畔にある、1874(明治7)年創業の蕎麦屋「竹老園東家総本店」への取材旅行であった。このときの内容を、随筆『そばや』として発表した。
釧路駅前を見て、がっかりした。駅前の最果てという感じのうらぶれた風景が、懐かしくなったからだ。運転手の話だと、ここ4、5年でビルなどが建ち、以前とは全く別の町になってしまったという。
釧路から根室まで、急行「ノサップ」(現在は快速列車に格下げ)には乗れなかったので、満員の各駅停車に乗った。車内で偶然知り合った、根室市観光課の柳瀬さんが、宿泊先と夜の根室見物の手配をしてくれた。
夕方、根室駅に着き、紹介された宿に向かった。宿で待っていたら、柳瀬さんの紹介で同僚の今井さんが迎えに来てくれたので、女中から長靴を借り、流氷を見に出かけた。
急に潮の香が顔をうってきたと思うと、もう海だった。
真暗な海の彼方に緑色の灯台の灯がひとつ明滅しているだけだ。岸壁に立つと目の下に白いものがたゆたっている。
「あっ、流氷ですね、丁度よかった」
今井さんが私を手招いて岸辺の下を指さす。流氷は青白い月光を受けて海岸線をずっと海の半ばまで埋めつくしている。ところどころ、綿をちぎったようにひびわれて、波に揺られて、大きくゆらめいていた。
港から町へと引き返し、洒落たスナックでカスベとコマイの干物を肴に、ウィスキーを飲んだ。店のマスターが粋で、ハンサムな容貌が印象的だった。
翌日、昨日知り合った観光課の2人と一緒に、車で昆布盛を通って、落石岬へ向かった。道の左右はサカイツツジの群生地で、車は道の草原の中に立っている廃墟へと向かい、そこで降りた。
石碑も記念碑もない岬、いきなり岸壁が、そぎきったように真直ぐ海になだれ落ちる岬。あるのはただ遠景の石の廃屋ばかりだ。日本で最初に建った無電局の建物だという。近く見えるが、ツツジだけが咲く雪どけの原野でもうそこへ行く道は失われているとか。
道もなくなった廃墟の建物の姿は、この風景の中に欠かすことが出来ない点景であった。
この廃墟を見て、ここへ来たかったのだと思った。そして、「人は誰でもそこへたどりつかねばならない、必ず一度は訪れることを約束されている土地がいくつかあるのではないだろうか」と考えに至った。そして、落石までの長い道のりと雪と、余りにも何もない簫条の風景を見て満足した。
道東旅行から5年後の1973(昭和48)年、筆者は奥州平泉中尊寺で得度(出家)した。法名は「寂聴」。
落石無線電信局は1908(明治41)年に、船舶との公衆通信(電報)を取り扱う為に設置された。1931(昭和6)年、米国のチャールズ・リンドバーグが、北太平洋横断飛行の際に、交信を行った。電信局は1966(昭和41)年に閉鎖した。建物は1985(昭和60)年、根室出身の銅板画家で池田良二武蔵野美術大学名誉教授が改修して、スタジオとして使用。2008(平成20)年夏より、井出創太郎と高浜利也の2人の芸術家による、アート・プロジェクト「落石計画」が続けられている。
※表紙画像は、『岬へ』が収録されている『終りの旅』の表紙