武田信広に成り切った男の野望
奥州栗原郡築舘の大庭平三郎は11歳の時に、川遊びをしている最中、誤って友達を死なせた。父の左衛門佐義光は責任を感じ、終生友の菩提を弔わせるために、息子を出家させた。平三郎は得度し清岩と名乗り、17歳で津久毛村の金雞寺の住職となった。
住職になって2年目の冬、寺に侍と女がやって来た。侍は前若狭守護武田信賢の長男信広、女は信広の家来市川又兵衛弘重の妹信乃。信広は弘重と信乃の3人で、家督の問題で家を飛び出し、南部領に向かう途中だった。弘重は近くの川に転落したので、清岩は助けに行くが、すでに亡くなっていた。寺での通夜の後、信広は清岩に旅の目的を語り、身元を証明する臍の緒と書付、短刀を見せた。
清岩は亡くなった家来を、丁重に弔った。信広は長旅で体調を崩したので、清岩に南部に行って自身のことを伝達することを依頼し、信乃と2人で寺に残った。清岩は旅の途中で、思いもよらぬことを考えた。
「あれがあれば、誰じゃて若狭武田の御曹司で通るわけじゃわ」
あれとは、証拠の品だ。
「一体、あの人はほんとの信広殿であろうか。ほんとの信広殿はもうどこぞで死んで、あれは品々だけを手に入れて、もらったか、盗んだか知らんが、そういう男であるかも知れん。そうであっても、それは誰にもわからんのだ。若狭もの以外には」
とも考えた。
清岩は来た道を引き返し、信広と信乃を殺し証拠の品を奪って姿を隠した。2週間後、清岩は何食わぬ顔で寺に現れた。そして、近隣の者達に亡くなった2人の素性や、旅の目的を偽った。
翌年の夏、清岩は比叡山へ修行を口実に、寺から逃げ出した。まず、上州足利へ行き山伏になり中山道から京へ、そして若狭小浜に行った。ここで武田信広のことを徹底的に憶えるために、半年以上滞在した。加賀で武士の姿になり、宮の腰の港から船で北上して、南部領三戸へ向かった。
清岩は自分のことを、「若狭武田の近い血を引く武田彦太郎信広」と名乗り、さらに証拠の品を見せて、南部家当主光政をはじめ家老や重臣らを欺いた。信広に成り切った清岩は当主の信頼を得て、下北半島の田名部の蠣崎に知行地を貰った。この地で安藤伊駒太郎政季に出会い、2人で蝦夷地について何度も語り合った。その後、政季は2人で蝦夷地に向かうことを提案。清岩は当初断ったが、還俗して武士になる考えをもっていたので、蝦夷地行きを承諾した。
下北半島の大畑から船出して、蝦夷地に向った。船はわずかに二隻。一隻には安東が家来五人と乗り、一隻には信広が家来四人と乗っていた。(中略)信広は小具足に陣羽織、家来らは小具足に半頭という甲斐々々しい姿であった。(中略)
(おれはきっと大名になる、蝦夷地全土の)
満帆にはらむ潮風に吹きおくられる船の上で、信広はたえず胸のうちでそう言いつづけていた。
一行は松前に上陸。松前はコシャマインの戦いで町も城も荒れ放題で、日本人(シャモ)の姿はどこにもなかった。清岩は「最初の博打には負けたが、男の勝負所はこれからだ」と考えた。その時、アイヌに身を窶した落武者に会い、これまでの経緯を聞いた。そして、上ノ国の花沢館へ向かった。館では安東定季主従をはじめ、他の館からの豪族などが集結していた。ここで、政季は清岩のことを皆に紹介した。
「若狭の前守護、武田信賢殿のご長男、しかじかで南部家のお客分となっておわした方でござる」
と紹介すると、人々の感動は一通りでなかった。若狭という国は、当時の北海道の日本人らには最も印象強く、最もありがたい国であった。
その国の守護の長男とあっては、最も尊敬せざるを得ない。しかも、北海道と最も近接している土地の大々名である南部家に客分となっていたというのだ。これは信広の素姓に最も信用ある証明書がつけられたと同じだ。館主らは「殿」と尊称した。
清岩のリーダーシップで、安東主従と近隣の豪族は、コシャマインを征伐した。清岩はその後、蠣崎修理太夫季繁の娘と結婚して大名となり、勝山館を築いた。晩年は入道になり、昔の名前の「清岩」に戻し、1494(明応3)年に63歳で亡くなった。
松前氏の始祖である武田信広は1431(永享3)年、若狭(福井県)武田一族の元で誕生となっているが、出生地に関しては南部(岩手県)説もあり、歴史家の間では詐称との指摘もある。作者はこのことを基にして、本作品を書き上げた。