震災に襲われた奥尻島の悪夢
1993(平成5)年7月12日、裕次は下校途中で剛太と巧と一緒になった。歩きながら、夏休みに裕次の兄の一雄が住んでいる札幌に行く計画を3人で立て、別れた。
裕次は早目に夕食を済ませた。そして、両親の経営している港近くにあるスナック「かもめ」に顔を出すため、妹と祖母を家に残して、自転車で店に行った。裕次は父の要望で客の前で歌い、場を盛り上げた。夜10時17分頃に、母に家に帰るように言われた、その時だった。
突然、店がガタガタガタッとなりだした。外をダンプカーがなん台もとおったのかと思った。と、
ドンドンドンドンドン⋯⋯⋯
つきあげるようなたてゆれがきた。
(中略)
海はザワザワと白くあわだちながらさわいでいる。
港につないである船が高くもちあげられ、ガッシガッシと音をたててゆれている。
「津波がくるぞ!」
津波が来ると悟った両親は、車に客を乗せて大急ぎで避難。裕次は自転車に乗って、大急ぎで家に戻った。家の中にいた祖母は、津波がここまで来ないと言って避難しようとしなかった。さゆりを先に避難させて祖母を残して家を飛び出した瞬間、辺り一面津波が襲い、火災も発生。裕次は必死の思いで高台に避難して助かったが、家族と離れ離れになった。
裕次は高台に避難してきた人達と一晩過ごし、翌朝に避難所のある中学校に行った。両親と祖母の姿は無かったが、妹の無事を確認。直後に剛太の家族に会った。剛太の母から研修センターへ行くように言われ、妹と向かった。
研修センターは避難所というより、遺体の仮安置所になっていた。裕次は妹と2人で一体ずつ身元の確認をしたが、3人の遺体は無かった。ここで、巧の母に会った。巧は父と車で船を見に行き津波に巻き込まれ、逃げ遅れた巧の母は難を逃れた。ここに居てもわからないので裕次達3人は、見つかっていない5人を探すために、港の方に向かった。
ゆうべ、あのときまで、たくさんの家が立ちならんでいた下町は、灯台下の十数軒をのぞいて、岬の突端まで、あとかたもなく消えてしまった。港に面した東側は火事で焼きつくされていた。がれきとなった町を見おろす高台の道には、津波でも根こそぎにされなかったドンゲの長い茎ばかりが目立った。
(中略)
消防団や町の人たちが、長い棒のようなもので積み重なった家の残がいをかきわけ、生き埋めになった人や亡くなった人を探していた。
「あっ、ほとけさんだ」
見つかった遺体は祖母でなかった。今回の地震で裕次は、祖母を避難させなかったことを悔やんだ。巧の母は海に向かって大声で、「たくみーっ!おとうさーん!」と叫んだ。裕次とさゆりは避難所に戻ろうとした時、漁船に乗っている巧の姿を確認。巧は飼い犬と共に漁船に救助されたが、巧の父の行方はわからなかった。裕次は巧がひょっこり帰ってきたので、祖母と両親の生存を信じた。
しかし裕次の願い虚しく、数日後に祖母と両親の遺体が見つかった。悲しんでいる兄妹の元に長兄の一雄が駆け付け、2人を元気づけた。一雄は地震直後の漁の再開は難しいと判断し、兄弟3人で岩内に転居することを決めた。
地区の合同葬と告別式が終わると、一雄は新居を探すため岩内に行った。そして兄妹は新学期を待たずに転居先が決まったので、島を離れることになった。
8月16日、剛太と巧がフェリー乗り場まで、見送りに来てくれた。裕次は来年の燈籠流しの時に島に戻ると2人に言って、フェリーに乗り込んだ。
プープーーーッ!
出発だ。
裕次はさゆりの手をしっかりにぎって、もう一方の手を友だちにせいいっぱいふった。
「また来るからなー」
剛太と巧の姿がみるみる小さくなっていく。
裕次は、今、父や祖母たちに見送られて、新しい生活に出発するんだと思った。
震災の被害者は、死者行方不明を含めて221人。奥尻島は地震の教訓から災害に強い街づくりを目指し、低地にあった住宅地の高台移転、避難路や水門の整備、高い防波堤を造り、大規模な津波対策をした。震災から4年後の1997(平成9)年10月、被害者を追悼する慰霊碑「時空翔」が建てられた。翌年の3月17日、越森幸夫町長が復興宣言。さらに3年後の2001(平成13)年、慰霊碑の近くに震災関連施設の奥尻島津波館が設立された。