小説家の筆が描いたまち。書かれた時代と現在。土地の風土と作家の視座。
「名作」の舞台は、その地を歩く者の眼前に何かを立ちのぼらせるのだろうか。
*この連載は、作家の合田一道氏が主宰するノンフィクション作家養成教室「一道塾」(道新文化センター)が担当しています。
第72回

関寛爺(徳冨蘆花)

あらすじ

1910(明治43)年9月24日から30にかけて、作者(徳冨健次郎)は妻(愛子)と養女(鶴子)の親子3人で、淕別(現陸別町)の医師関寛(通称寛斎)を訪問し、斗満の自然を満喫した。翌年、作者は寛斎からの手紙で、親子との不和を気に掛ける。この作品は、『みみずのたはこと』の一節である。

淕別の老医師との交流

大渕基樹/一道塾塾生

1909(明治42)年、淕別から78歳の老医師関寛斎が作者を訪ねてきた。訪問のきっかけは、寛斎の8男五郎が、「上京したら一度訪ねて見てはどうか」と勧めたことによるものだった。健次郎は寛斎の経歴の他に、自分が傾倒するロシアの文豪トルストイについての話題やキリスト教、自然や農業に対する考えについて興味を持った。そのことで、2人はすっかり意気投合した。帰り際に、寛斎は健次郎に「北海道も直ぐ開けて了う、無人境が無くならぬ内遊びに来い遊びに来い」と誘った。2年後の9月、健次郎は親子3人で東北と北海道を巡る旅行の時に、淕別に立ち寄った。

北海道十勝の池田駅で乗換えた汽車は、秋雨寂しい利別川の谷を北へ北へまた北へ北へと駛って、夕の四時淕別駅に着いた。明治四十三年九月二十四日、網走線が淕別まで開通した開通式の翌々日である。
今にはじめぬ鉄道の幻術、此正月まで草葺の小屋一軒しかなかったと聞く淕別に、最早人家が百戸近く、旅館の三軒料理屋が大小五軒も出来て居る。(中略)斗満の関牧場さして出かける。(中略)「おゝ鶴坊来たかい。よく来た。よく来た」

翌日、親子3人が八畳間で寛いでいると、寛斎が菓子や野葡萄を持ってきて勧めた。さらに健次郎は寛斎から牧場創業記事『日々の心得の事』を見せられ、牧場のことに関心を持った。夕飯後に、寛斎の6男餘作と従業員の片山夫婦と共に、淕別のことを語り合った。
26日は、寛斎の親戚である君塚貢の案内で、家族3人淕別周辺を歩いた。帰途、斗満橋から斗満川の美しさを、作者は次のように表現した。

斗満橋上に立って、やゝ久しく水の流を眺める。此あたり川幅六七間もあろうか。淕別橋から瞰むる淕別川の川床荒れて水の濁れるに引易え、斗満川の水の清さ。一個々玉を欺く礫の上を琴の相の手弾く様な音を立てゝ、金糸と閃めく日影紊して駛り行く水の清さは、まさしく溶けて流るゝ水晶である。

関牧場のジオラマ:関寛斎資料館より

27日と28日は、現地の測量調査に入った道庁技師一行の宿泊先の天幕(テント)を、家族と寛斎とともに訪ねた。訪問場所は、平坦な高原を意味するニケウルルバクシナイと呼ばれるところだ。
29日は、君塚の案内で上利別原野、午後はアイヌの古城址であるチャシコツを見た。
30日、作者一行は次の訪問先である旭川へ行くので、寛斎に別れを告げた。健次郎は旭川行きの列車の車窓から十勝の自然を見て、寛斎の心境を次のように考えた。

東北の方に寄って一峯特立頗異彩ある山が見える。地理を案ずるに、キトウス山ではあるまいか。斗満川の水源、志ある人と共にうち越えて其山の月を東に眺めんと関翁が歌うたキトウス山ではあるまいか。関翁の心はとく彼山を越えて居る。(中略)翁が百歳の後、其精神は後の若者の体を仮って復活し、必彼山を越え、必彼大無人境を拓くであろう。

寛斎は年末に上京して、翌年4月に帰郷。この間、2度作者を訪問した。この時、健次郎が寛斎の元気な姿に接した、最後であった。その後、寛斎より出版の依頼が来たため、1912(明治45)年3月に『命の洗濯』を発行。出版の最中に寛斎の手紙から、親子の不和を示唆する文面があったため、健次郎は親子の対立を心配していた。
明治から大正に時代が変わった1912(大正元)年10月15日、寛斎は亡くなった。享年83。寛斎の死因は自殺となっているが、阿片チンキを誤って大量に服用したことによる事故説もある。寛斎は先に亡くなった妻アイが眠る青竜山に葬られた。
作者は寛斎の臨終に関して、形は乃木希典に近く、精神はトルストイに近いとの見解を示した。そして最後に、「遮莫永い年月の行路難、遮莫末期十字架の苦、翁は一切を終えて故郷に帰ったのである」と締めくくった。
作者が訪れた淕別は、1923(大正12)年に淕別村へ。1949(昭和24)年に陸別村に改称し、4年後の町制施行で陸別町になった。淕別駅の駅舎は現在、道の駅オーロラタウン93りくべつである。道の駅に併設されている関寛斎資料館には、寛斎の人生に影響を与えた人物の1人として、資料館前に徳冨健次郎の写真が飾られ、館内には寛斎に送った短歌が展示されている。

道の駅 オーロラタウン93りくべつ

関寛斎の銅像:道の駅りくべつ駅前周辺広場より


徳冨蘆花(とくとみ・ろか)

1868(明治元)年~1927(昭和2)年。 熊本県水俣村(現水俣市)出身。本名徳冨健次郎。同志社英学校(現同志社大学)中退。1889(明治21)年民友社社員。校正や翻訳の仕事をしながら、1900(明治33)年に、『不如帰』を発表。代表作は、『自然と人生』、『みみずのたはこと』。兄は思想家の徳富蘇峰。
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