幕末の惨状を目の当たりにした
少年松前藩士
1868(明治元)年11月、15歳の少年松前藩士の春山伸輔と黒木三平は、密偵で薩長政府の役人の村山次郎と出会った。2人は飲み屋で、蝦夷地は榎本軍の侵入で大混乱になっている話を聞いた。ちょうど、自分達も家名を復活させるという目的があったので、村山の考えに共感した。
「俺の仲間に加わる気はないか。遊軍隊(俺たち)は、榎本軍の敵だ。松前も榎本軍の敵。敵の敵は味方だ」(中略)村山は手を叩いた。
「よし、固めの杯といこうか」
伸輔と三平、村山の三人は、同時に猪口を呷った。
2人は遊軍隊に入った。仕事は雑用の他に、お雪という同年代の彫物職人の少女から、刷物を受け取り、裏路地の壁に貼り付けることだった。この間に伸輔は、「薬売りの才」と親しくなった。才とは変装した土方歳三のことで、伸輔は土方だとは気が付かなった。
翌月、大多数の遊軍隊士が新選組に襲われ、村山は怪我の治療のため本州に渡った。そのため、藤井民部が隊を指揮した。
翌年1月、伸輔はお雪と2人で歩いていると、伸輔は榎本軍の配下に出会った。お雪は逃げたが、伸輔は捕まり獄舎に入れられた。数日後に南部陣屋で土方によって、取り調べられた。伸輔は才が自分の憎むべき榎本軍一派と知り、反抗的な態度で尋問に臨んだ。土方は事前に伸輔の両親のことを調べ上げ、そのことを伸輔に告げた。
「お前の父と母だが、既に死んでいる。松前攻撃の日にな」(中略)
「松前攻撃のあった十一月の五日、松前城下町で火事があった。その火事に巻き込まれてお前の父と母は焼け死んだようだ。お前の父は、政変に巻き込まれて蟄居中だったらしいな。戦になっても退避の指示が出ず、律儀なお前の父は屋敷を離れなんだらしい。お前の母もな」
伸輔は御用火事による家族の焼死を、信じようとしなかった。榎本軍に怒りを見せたが、土方が語る蝦夷地侵入の経緯と開拓の目的に理解し納得した。取り調べ後の獄舎の中で、伸輔は自分の居場所が無くなったと感じ、途方に暮れてしまった。
翌月、伸輔は釈放になった。松前に行き、城下町の惨状を見た後、再び箱館に戻った。馴染みの茶店で、榎本軍の協力者でかつての仲間の斎藤順三郎と出会った。斎藤は、行く当てのない伸輔に、鼠町の高田屋大明神を紹介した。鼠町は奉行所の手が一切入らず、地元民ですら足を踏入れない、スラム街のようなところだ。斎藤のことを知っている神主の十兵衛は、伸輔を氏子として働かせ匿った。ここにはお雪もいて、神社の巫女になっていた。
4月、伸輔は箱館に戻った村山に再会し、遊軍隊は藤井の裏切りで撃滅したことを知った。その後、神主が何者かに殺された。そのような中で、ねずみの富蔵と藤井は、神社の氏子達と遊軍隊の残党を加えて、高田屋嘉兵衛が居た頃の箱館を取り戻すという旗印の元、襲撃計画を立てた。さらに、お雪を嘉兵衛の落胤の子孫に仕立て、神主殺しは土方だと嗾(けしか)けて、氏子達を騒動に巻き込んだ。
騒動を知った土方は、5月10日に鼠町へ攻撃を開始。町内は神輿に担がれたお雪と白装束姿の氏子達、土方軍がいる中で、カオス状態になっていた。大混乱になっている中、伸輔は隙を見てお雪を救出した時、富蔵と藤井に見つかった。その時、神主殺しは自分達2人であると口走った。それを聞いた氏子達は、富蔵と藤井に襲いかかった。内輪揉めの中、伸輔とお雪の目の前に土方が現れた。
「俺も鬼じゃない。ほとぼりが冷めるまで隠れていてくれりゃ、それでいい。ここでお前を斬り殺すのは寝覚めが悪いんでな。今度こそ、心して逃げろよ」(中略)
「さっさと行け。面倒なことになる前に」
「あ、ああ」
頭を下げるお雪の手を引き、地蔵町から一本木関門を目指して、闇の町を駆けていった。だが、ふと気になって、伸輔は振り返った。もうそこに、歳三の姿はなかった。
伸輔とお雪は助かったが、三平は騒動に巻き込まれた氏子達とともに死んだ。土方は鼠町の騒乱を鎮圧した直後、一本木関門で新政府軍に撃たれて死んだ。墓は函館にあるが、どこに埋葬されたか今もわかっていない。
作中の鼠町及び高田屋大明神という神社は、作者のフィクションである。市内末広町に箱館高田屋嘉兵衛記念館があったが、資金難や支援先不在のため長期閉館中で、現在再開の目途が立っていない。